Pavlov/百



 ごゆっくりどうぞ、とにこやかに去って行った店員を見送ると、百は帽子をとる。正面のソファに座った▼も帽子をとって眼鏡を外した。ロケから直に足を運んでいるため、なけなしの変装……のようなものだった。たいして意味はないような気もするが。
 ローテ―ブルに置かれたメニューを片手に内装を眺めていた百は、少し居心地が悪そうに、ぎごちなく笑う。

「い、いや〜……成人男性が足を踏み入れるには少し躊躇するね」
「キミがどの店でもいいって言ったんじゃない。ボクは甘い物が食べたかったんだから。あぁでも、こういう内装はキミじゃなくてユキさんのほうが似合うかも。絵になりそうだね」
「わかる……なんの映像特典なのそれ……オレがみたい……」

 キミのそういうところ嫌いじゃないよ、とだけ言って▼もメニューを広げた。
 お腹もすいているし、久しぶりに足を運んだ店なので少し量が多くても良いだろう。何より明日はダンスレッスンが長々とスケジュールを陣取っている。パウンドケーキもフレンチトーストも頂こう。季節の紅茶は金木犀が使われているらしい、今の時期公園の前を通るとふと香ってくる。あの匂いは嫌いじゃなかった。
 百はどうするのだろうかと▼が顔をあげると、ばちりと目が合う。

「可愛いね」
「なに? 当たり前のこと言っても代金はそれぞれ自分持ちだよ」
「素直に受け取らないなぁ、もう!」

 唇を尖らせた百がテーブルの端に置かれたカードを手に取る。たしか、あのカードには本日のケーキが書かれているはずだ。

「なんか、随分ケーキの名前……なのかな、これは。個性的だね、ここ」
「今日はなんだって? 普通の名称も書いてあるはずだけど」
「えーっと。クレームバニーユと、ポワールフィグと、ショコラオランジェ。だって、舌噛みそう」

 色んな意味でよく回る舌を持っているくせに。
 同じ物がふたつでいいか確認をしてから、店員をよんで注文をする。メニューを返してから、▼も先程のカードに目を通した。
 『君に夢中』『可憐なあなたに』『私の憧れ』、詩的というか個性的というか。持ち帰りの売店に並ぶケーキ達も、やはり同じような言葉が添えられていたなと思いだす。『ずっと一緒』とか『笑顔のそばに』、花言葉のようで素敵だと思う。

「あっ、すごい。ホントにこれ金木犀の匂いがする」

 先に運ばれてきた紅茶を飲む百をぼんやり眺める。その手にあるものがペットボトルでなくティーカップで、しかも中身がももりんではなく紅茶であることがとても珍しい事に感じた。どこでもももりんを飲んでいるわけではないにしろ、人の家の冷蔵庫にまで常備する男だから、しかたがないと思った。
 しかし、先程この店の内装はユキに合いそうだと言っておきながら。わりとこの男も悪くないのではないかと、▼は思い始めた。
 ユキは絵になる。丁寧に描かれた絵画のような、美しいものだ。あの人は花だとか海だとか、自然の景色のようなものだと思う。そういった美しいものだ。そうであればなるほど、こういった少し日常からかけ離れたような洒落た店にも合うものだ。綺麗な店には綺麗な花があるものだから。
 百は、正直言って居酒屋のほうが倍近く似合うような男なのだが(それはそれで魅力だ、相方と方向性が違うのは良い事だと思う)この店との程よいミスマッチさのおかげか、百に目が行く。……幼稚園にヤクザがいるような凶悪な絵面ではないので、可愛らしく見える。というか、本人がどこか居心地悪そうにしているその様子が可愛い、と思う。

「そこまでガン見されると、モモちゃん穴が開きそうなんだけど」
「よかったね、可愛い女の子にガン見されて」

 平然と返す。紛れもない事実だ。

「その自信! って思ったけど、さっきオレが褒めたね」
「そうだよ。ボクもキミの顔は好きだよ、その年齢にそぐわない感じが。タイプじゃないけど」
「褒めてないでしょそれ」
「中身のほうが好きなんだ。外側の賛辞は別の人間にしてもらいなよ」

 何故か黙った百に代わるように、ケーキが運ばれてくる。
 そうなればケーキしか見えないようなものだ。下から一段目にフレンチトースト、二段目にパウンドケーキ。そそくさとケーキスタンドから皿を取り外して、いただきますと手を合わせる。上にのったミントを噛まずに飲みこんで、洋梨と無花果のパウンドケーキに生クリームを付けて一口。あぁ、甘い物は幸せだ。カロリーの暴力なのだけど。はやく横のショコラオランジュも食べたいなと思う。きっと美味しいに違いない。
 好意をもっている人間との食事ならば、なおのこと美味しく感じるだろう。

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