陛下とクッキーと私/ガイアス


「うーん、暇」

 広い執務室の端に置かれた机でローエンに出された課題をしていた▼はぐっと伸びをする。同じ部屋にいるガイアスは黙々と書面に目を通しているので、暇なのは▼だけだ。そもそもガイアスは暇な事が珍しい。

「ガイアスさん」
「なんだ」
「遊びませんか」
「……部屋に帰りたいか?」

 眉を顰めて言われた言葉に、▼は背筋を伸ばして課題と向き合う。
単純な読み書きなのだが、すでに日本語が定着している▼の頭では新しい文字を一から覚えることはとてつもなく大変だ。リーゼ・マクシアで生きてゆくことを決めた以上、覚えなくてはならないのだが。中学生になっていきなり英語をやらされた時と似ているな、とふと思って▼はくすりと笑った。

「ねぇガイアスさん……」

 ある程度課題を進めて時間が経ったので今度こそガイアスとなにか会話しようと▼は顔を上げて、停止している手と閉ざされた目蓋に、パチパチと瞬きした。何かを思考すす態勢のまま、眉間に皺を寄せて寝息を立てているア・ジュール王を数分見つめた▼は『そうだ』となるべく静かに椅子から立ち上がる。

(お茶でも淹れて来よう。それにしても、寝てるだけでも絵になるなんてずるい…)

 目も覚めるだろうし、とそっと執務室の扉を開けて廊下に出る。
城で過ごした時間は少ないが、利用頻度の高い執務室や調理場の場所は覚えている。案内された時は広すぎて覚える事ができるか不安だったのだが、何回も迷っているうちに大体の構造はつかめてきた。調理場に顔を出すと顔見知りの料理人がいたので、隅っこでお湯を沸かして、その間にカップやソーサーやトレーを借りる。お茶するならこれも持っていきなよと渡されたクッキーを皿にわけてトレーの上に乗せた。
何度かよろけながらもガイアスの執務室の前に戻ってきた▼は、最大の難関である『扉をあける』を実行しようとトレーを持ち直してドアノブに手を伸ばした。

「ほわっ!?」

 何の手ごたえもなく空を切った手につられて体がぐらつき前のめりになる。確実に転ぶ!と身を固くして目をつぶった▼の体を掴んで支えたのは、▼よりも先に内側から扉を開けたガイアスだった。

「大丈夫か」
「あ、ありがとうございます。っていうかどうかしました? どこか出かけるなら、ガイアスさんの分のお茶片付けてきます」
「いや、まだ執務室にいる」
「そうなんですか? じゃあ入りましょう」

 あっさり▼の手の上のトレーを持って執務室の中に入っていったガイアスの背中に▼は首を傾げた。ふと、床に白いものが落ちていることに気づき屈む。▼には読めないが、きっと先ほどまでガイアスが目を通していた書類だろう。

「ガイアスさんが書類を落とすなんて珍しい」 
「急いでいたからな」

 書類を集めて机の上に置こうとしていた手を止めて▼はガイアスに振り向く。すでにカップには紅茶が入れられており、ガイアスはクッキーの前でスタンバイしていた。

「えっ、急いでたのに呑気にお茶しちゃっていいんですか?」
「お前だ」

 私は何か悪いことをしただろうかと▼は内心焦りながらもガイアスの向かいに座る。一口紅茶を飲んだガイアスが視線をクッキーに移しながら口を開く。

「急にいなくなっていたから、お前に何かあったのかと思った」

 自分が急に部屋からいなくなったから、急いだのか。書類を落として気がつかないくらい急いだのかと思うと、ほんのりと頬に熱が集まる。

「それって心配してくれたんですか?」
「さぁな」
「だから私の分のクッキーにまで手を出さないでくださいっていつも言ってるじゃないですか」

 スッと伸ばされた長い指を叩き落して▼はキッとガイアスを睨む。なんでこの王様は自分の前だとこんなに食欲旺盛なのだろうか、毎回不思議だ。

「でも、心配っぽいのをしてくれたのは嬉しいです、ありがとうございます」
「今度からは字の練習ついでに書置きでもしておけ」
「はい。……だから私のクッキーですってば!!」

 制止も虚しくガイアスの胃の中に消えたクッキーに、▼は深い溜息をついた。

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