ひざまくら/エイブラハム・ヴァン・ヘルシング



 あら、と▼は小さく声をあげる。
ドラクロワ二世のロンドン滞在に合わせて宿泊しているホテル、ヴァンにあてられた部屋。そこにヴァンがいることはなにも不思議に思うことはない、この部屋において異端なのは▼なのだから。その▼が声をあげたのは、ヴァンがソファの上でぴくりとも動かないからだ。
規則正しく上下する肩を見るに、寝ているのだろう。ここのところ長距離の移動と長時間の会合が続いていたので、無意識にでも疲れが溜まっていたのかもしれない。いくら強靭とはいえヴァンも人間だ。

「ヴァン、寝るのならベッドに行ってください。邪魔ですよ」
「……寝ていたか」

 レンズの向こうで開かれた蒼い目がしばらく瞬きを繰り返し、▼を捕らえる。
そのままソファを離れる気配はないので、睡眠をとることは止めたのだろう。そう思った▼が紅茶でも淹れようとヴァンの傍を離れようと一歩踏み出すと同時、ヴァンが▼の手を掴んだ。後ろに引っ張られるように体が傾くも、体勢を立て直した▼は怪訝そうにヴァンを見やる。
なんだというのだこの男は、そういった気持ちがありありと顔に浮かんでいた。

「今日は疲れた、隣にいてくれ」
「……はい?」
「聞こえなかったのか。今日は疲れた、隣にいてくれと言った」

 聞こえていますけれど、と呟いた▼は途端にうるさくなる胸の音に眉を寄せる。ヴァンの物言いがストレートであることはとうに理解していたが、理解していることと慣れることは別だ。いつもの澄ました顔からでてくるその言葉は、岩塩弾や榴弾など比ではないほど、▼を動揺させる。そうつまり、ときめいてしまう。
惚れた弱み。大人しくヴァンの横に座った▼は、咳ばらいをしたあとにヴァンの言葉を待つ。わざわざ隣にいろと言ったのだから、なにか要求があるのだろう。……しかし、待てどもヴァンから続きが出て来ることはない。

「あの、やはりお茶でも淹れてきます」
「いらん。だが、場所は借りよう」

 ▼が「なにを」と問う前に、ヴァンは体を少しずらすとなんの躊躇いもなく頭を▼の腿にのせた。
突然の出来事に硬直する▼をよそにヴァンは早々に目を閉じる。驚いた時に軽く上げた両手をのろのろと下げた▼は、そのままヴァンの頭に手をのばす。自分とは正反対の明るい色をした髪を撫でて。なんとか胸の鼓動を落ち着かせようと試みる。ノーチラスの砲撃のほうが静かだったのではないかと思う鼓動を、ヴァンに聞かれたらと思うと、どうしようもなく恥ずかしい。なにか、誤魔化さなくてはと▼は言葉を絞り出した。

「眼鏡は、はずしたほうが、よろしいかと」

 そうだな、とふっと唇で笑ったヴァンにはきっと、胸の音などとうの昔に聞かれていたに違いなかった

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