いつもの風景、いつもの人/神崎颯馬


 神崎颯馬という青年は、わたしの幼馴染であり、お互いまだ満足に話す事すらできない頃から決められた許婚でした。
違う流派だというのに妙に意気投合してしまった父親達のやりとりが、いまもわたし達の間柄となってそこにあります。許婚といっても週に一、二回会う程度。お互いの家はさほど遠くはないのですが、お互いまだ学業などに身を入れなければならない年齢。特に颯馬さんは『夢ノ咲学院』という少々……えぇ、変わった学校に通っているので、帰宅が夜遅くになる事もあり、土曜日や日曜日にも学校の用事があると聞いています。もう二年目になりますので、颯馬さんも慣れた様子です。颯馬さんは携帯機器の扱いが少々苦手なようで、メールもあまり送ることはなく。わたし達の連絡手段といえば家の電話か、幼少から続く手紙のやりとりが多いのです。
 今日がその週に数回の日、颯馬さんが我が家に訪ねて来る日でした。

「ありがとうございました」
「▼殿、また腕を上げられたな」

 汗一つ流していない颯馬さんがそう言ったので、わたしはなんだか照れくさくなって俯きました。わたし達は顔を合わせるたびにこうして模擬刀で稽古をしています。己の流派は幼少から嗜んでおりますが、神崎流はここ数年、颯馬さんにご教授いただいているのです。嫁ぐ先の剣がわからぬ、というのも恥ずかしく感じ、断られるかと思いながらも頼み込んだところ、二つ返事で了承していただけました。颯馬さんは優しい方だと思います。
 道場を離れ、自宅の縁側に座って話すのもいつも同じ。日はわたし達を照らし、同じくらい濃い影をわたし達に落とし、吹き込む風は穏やか……とはいかず、今日はなにやら風が強く、颯馬さんのさらさらした長い髪を揺らすというには荒々しく吹き付けています。部屋に入ったほうが良いのでは、と思いましたが。颯馬さんがなんの躊躇いもなく腰を落ち着けたので、わたしもそれにならいました。
 風に吹かれながら他愛のない話をします。学校のお話をする颯馬さんの顔はいつも楽し気です。ユニットの先輩お二人のお話をするときは、それがさらに輝きます。剣を握っている時の真剣な表情も素敵ですが、こうして快活に笑う颯馬さんの表情もとても好きなのです。わたしがお話をしているときは微笑む、という表現がぴったりの顔をされていることが多いのですが……。

「我の話ばかりで申し訳ない」
「いいえ。颯馬さんのお話を聞いている時も、とても幸せですから」

 わたしがそう言うと颯馬さんは少し眉をさげてどこか困ったような顔をしました。困らせるような事を言ったのでしょうか、少し不安に思います。下った眉をそのままに、颯馬さんは目尻を下げます。頭の動きにあわせて道着の上を流れていく髪から、なんだかとても綺麗な音が聞こえてきそうです。

「▼殿の話も聞かせて欲しいというのは、我の我儘だろうか」

 まぁ。本当に、まぁ、としか声が出ませんでした。
体の中心から、火が爆ぜるように熱くなるのがわかりました。こんなにも可愛らしい我儘を聞いたのは、生まれて初めてかもしれません。息が詰まるような、笑いだしてしまいたくなるような、そんなもどかしさのある気持ちが胸から湧いて出ます。わたしは二、三回瞬きをして、俯きました。顔が赤いのは、夕日のおかげで気づかれないでしょうか。そう願いました。
ですがここまで夕日が赤々と輝いているという事は、颯馬さんはもうご自宅にお帰りになる時間です。颯馬さんもそのことに気付いたのか、赤く染まった庭をひとしきり見てから、奥の部屋の掛け時計を覗き見ました。颯馬さんはたいへん目が良いようで、いつもこの場所から時計を眺めます。

「あぁ、もうこのような時間か」
「はい。明日に響いてはいけませんので、今日はこのくらいで……」
「うむ、▼殿も今日はよく休まれよ」

 熱のおさまった頬を上げて笑うと颯馬さんも微笑みました。
着替えなどがなければもう少し一緒にいられるのかもしれない、などと考えてしまいますが。稽古をつけてほしいと頼んだのはわたしですので、そのような事は言ってはいけないのです。お部屋の前で颯馬さんを待つ時間は、それはそれで楽しいのですから。颯馬さんと話したことを頭の中で反芻していると、いつも眺めている自宅の庭が、毎回違っているように思えるのです。
 ふと、颯馬さんがわたしに緩く握った手を差し出します。その小指だけが丸められていなかったので、わたしは一瞬何をするのかと首を傾げましたが、それが指きりだとわかると、同じように小指をだして絡めました。小指だけでも随分と太さが違うのだなと、改めて颯馬さんの手をじっと見つめてしまいます。綺麗に短く整えられた爪と、すこし硬い皮膚は。いつの間にか男の人の手でした。

「次に来た時には、▼殿の話をもっと聞かせてほしい」
「約束、ですね」

 思えば小さい頃も指切りはしたことがありませんでした。颯馬さんは約束をすると必ず守られる方なので、こういった『必ず守る証』というものは必要がなかったのです。しかし、してみるとどうでしょう。普段触れ合うことが少ないので、小指だけでもこうして颯馬さんに触れられるというのは純粋に嬉しく。指きりも良いものかもしれないと、思ってしまいます。
 満足気に頷いてから荷物のある客間に向かう颯馬さんの後ろを歩きます。先程絡めた小指を眺めては、熱くなる頬を誤魔化すように随分と落ちてきている夕日を見ました。次に颯馬さんにお会いした時に、なにを話そうかと。今から次が楽しみでした。
 カラスが鳴いた一瞬、振り返った颯馬さんのお顔が夕日で赤かったのです。きっとわたしの顔も赤いのだろうなぁともう一度、小指に視線を落としました。
 
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