わたしの知らないもうひとつ。/神崎颯馬


 わたしは夢ノ咲学院の校内で立ち尽くしていました。
颯馬さんのライブを見るために学院に足を運ぶのは、実は初めてなのです。わかっていはいましたが右を見ても左を見ても女性ばかり、たまに男性の姿もみかけます。年齢層は意外と幅広いようです。
売店では今日出演するユニットのブロマイドなども売られているようで、颯馬さんの所属する『紅月』のグッズも販売している所を見ました。開演よりずいぶん前に来てしまったので、ゆっくりと見ていたのですが。真っ黒な衣装に身を包んだ、褐色の肌の男性のブロマイドの札に『乙狩アドニス』と書かれているのを見て足を止めました。颯馬さんのクラスメイトとしてよく名前が挙がる方です。とても運動が得意なのだと聞いています。颯馬さんのお話を聞いているからか一方的に親しみを感じているので、お礼の気持ちとばかりに一枚手に取りました。他のお客様が講堂に向かったからか少し人のいなくなった売店、ようやく目の前に立つことのできたそこに、紅月のコーナーはありました。販売促進のためでしょうか、天井近くのモニターでは紅月の映像が流されていました。

「……」

 わかってはいました。
いるつもりでした、が正しいのかもしれません。わたしが見ているここには、アイドルの神崎颯馬しかいないのです。白と赤と黒と金、そんな衣装を着て扇を持つ姿が収められたそれを見て、なんだか少しだけ寂しく感じました。わたしは颯馬さんのすべてを知っているわけではありませんから、当然知らない面というものは多いです。アイドルの神崎颯馬は、まさにそれでしょう。真剣。真剣なのです。お話に聞いていた先輩お二人と共に演じる姿はどれも真剣そのものの表情なのです。稽古の時の顔とは違っているように思えます。稽古はひとり、己との戦い、そういう面が強いですが。どの場面でも先輩お二人を信頼して動いているのでしょう、画面の中の颯馬さんは自分ひとりの動きではないのです。共に活動する者としては当然なのかもしれません。ですがわたしは、颯馬さんのその姿に胸のうちの寂しさなど忘れて、ひどく見惚れていました。
 胸がどきどきしています。これから実際にそのライブを見るというのに、いまからこの様子で大丈夫なのかと自分が心配になり……ここではっと時計を見ます。開演が近いではないですか、わたしは慌てて講堂に向かいました。

「本当にありがとうございました」
「いいよいいよ、俺もどうせ行かなきゃだし。それにしても珍しいね、君の学校の子達ってあまりこういうのには来ないでしょ」

 言われた言葉に肯定します。学校の気質なのでしょうか、わたしの通う学校の生徒たちはアイドルですとか、ライブですとか、そういったものは休み時間の話題にも出すことが少ないのです。
颯馬さんと同じ制服を着ているので、学院の生徒さんなのでしょう。どの学校の子がよく来るかなんて、よく覚えているなぁと思いながら、木蓮色と砥粉色を混ぜたような髪色をした男性を見上げました。武道館らしき建物の近くにいたわたしを不思議に思ったのか、親切に声をかけていただいたのです。優しい方なのでしょう。とても綺麗なお顔をしていたので、何度か瞬きしてしまいました。
講堂の入り口、ライブを見に来た人々でざわざわしているそこが見えた時、その人は足を止めました。

「じゃあ、俺は用事があるから。あとはわかるよね?」
「はい。ご丁寧にありがとございました」

 楽しんでいってね、と目を細めて去っていった後ろ姿は髪色もあって狐を連想させます。どこかで見たことがあるような気がしたのですが……。
講堂の入り口で夢ノ咲の生徒さんに軽く説明を聞きました。大勢の人がいる講堂の後ろに移動します、立ってみる事になりそうです。あたりを見るとカメラが入っていたりして、学生の行事とは思えませんでした。観客席はこれからはじまるライブへの期待で溢れているのがわかります、熱いと感じる程でした。こういった雰囲気にはお世辞にも慣れているとは言えないので、わたしは少し居心地悪く視線を落としました。
耳を澄ませていると、ちらほらと『紅月』のことが聞こえてくるのです。先輩お二人……蓮巳さんと鬼龍さんのお話はもちろんですが、颯馬さんのことも聞こえてきます。お顔が綺麗とか、凛々しい雰囲気が素敵とか、そういう褒め言葉にわたしはただただ心の中で頷くしかありませんでした。幼少からずっと見ている容姿とはいえ、神様がおつくりなったのではと思うほど颯馬さんは綺麗なお顔をしていますから。ふとした時に颯馬さん切れ長の瞳から真直ぐさや純真さが感じられると、輝きがさらに増すのです。不思議ですね、本当に不思議です……。
 開演時間になり進められていくライブはどれも煌びやかで刺激的で、世の中にはこんなにも楽しく歌って踊る人たちがいるのかと驚きました。様々な色の照明が踊る彼らを追い、曲が進むにつれて観客のもっているサイリウムの色がかわっていくのです。夜空にでもいるような気分でした。ステージから彼らが去っても、周りは興奮冷めやらぬ、といった様子です。ほんの少しのあいだ講堂内が暗くなると、周りはなにがくるかわかったのでしょう。先程までのざわめきが嘘のように、しん……と静まり返りました。

 情けないことに、そこから先は夢でも見ていたかのような心地で、ずっとどこか足元がふわふわしたような気持ちでした。
力強い三味線の音が流れ出ると共にパッと輝く照明が、まるで月のように出てきた彼等『紅月』を照らしていたのです。そのなかにはもちろん颯馬さんの姿もありました。先程売店でみた映像と同じ衣装を着て、蓮巳さんの斜め後ろ、控えるように扇を持ちます。
彼の口からあまり聞いたことのなかった歌声。しなやかに、時に力強くその手の中で踊る扇。夜をひとかけら溶かしたようなさらさらした髪が、颯馬さんが動くたびに宙に舞います。こんなにも遠くにいるのに、ステージの奥の大きなスクリーンが、掌ほどあるかわからないその姿が、目を離すことを許さないのです。
ただただ、圧倒的でした。
 三人がステージから去っても、呆然としていました。周りの方に合わせてサイリウムを振る事すらできずに、立っていました。脳を直接揺さぶられるような衝撃でした。自分がこのあとしっかり自宅に帰れるかもわからないくらい、あの時間のあのステージにすべておいてきてしまったような、そんな感覚でした。
 神崎颯馬という青年は、わたしが知らなかっただけで、こんなにもキラキラとしたアイドルだったのです。
 
ALICE+