夏のはずれの次の秋/神崎颯馬


「海に行きたい」

 珍しく放課後にお会いする事になった颯馬さんが突然言った一言で、今日の目的地は決まりました。夢ノ咲の裏手にある、海です。
まだ少し暑さの残る日々。わたしは久々に浜辺に足を踏み入れました。ローファーなので、浜は少々歩くのも不便に感じます。舗装された道はともかく、砂の上を歩くことに適した靴ではありませんから。水際まではまだ少し、距離があります。何回か颯馬さんに支えられながら、わたしたちは波打ち際まで来ました。
もう水温も低くなっている時期ですから、周りに人の姿はありません。颯馬さんの隣、ただただ寄せては返す波を見て、その音に耳を傾けます。

「昔、こうして▼殿と海に来たことがあったと、ふと思い出したのだ」
「ふふ、お父様にもお母様にも内緒で。あれは小学生のころでしたね」

 小学生の夏。テレビで海の生き物の特集を見て、色鮮やかな水の生物が紙の上を泳ぐような図鑑をふたりで覗き込んだその日に。バスも自転車も馬も使わずに、二人で海まで行ったことがありました。
子供の足では遠かっただろうに、あの時の自分も疲れたなどとは思わず。ただただ颯馬さんとふたりで歩いていることが嬉しかったと覚えています。
 いまはどうでしょう。電車やバスを使って昔よりもっと遠くに行けるようになりました。あの頃より少しは自由に、こうして颯馬さんと海を眺めることが出来ます。それは、とても嬉しいことです。
わたしも背が伸びましたし。颯馬さんはわたしよりももっと背が伸びました。いまも砂浜に残る足跡の差が、成長の差を示しています。風で揺れる颯馬さんの髪をみて、そう、髪も伸びました、ふたりとも。あぁ、長い月日を傍ですごせたのだと、そう思います。

「あの時に拾った貝を夏が来るたびに見ては、海に来たいと思うのだが。休日に会うとどうしても竹刀を握ってしまう、これはこれで困りものである」

 むむ、と眉をよせる颯馬さんは。年上の、しかも男性にむける言葉ではないのかもしれませんが、とても可愛らしいです。休日にお会いして稽古をつけていただき、その後に颯馬さんと二人でお話をする。それが颯馬さんにとっても”いつものこと”になっていることが、なんだか胸の奥を優しく擽るような。そんな気持ちにさせます。

「学院の活動は、海ではされなかったのですか?」
「もちろん。あいどるとしての活動も、なにより我は海洋生物部である故、海に来ることはあったのだが。やはり▼殿と見たいと、そう思ってな」

 穏やかに微笑む颯馬さんのお顔を、真夏より少し和らいだ日差しが照らしています。わたしは頬だけが真夏にもどったように暑かったので、思わず俯いてしまったのですが。あぁもう少しだけ颯馬さんのお顔を眺めていればよかったと少し後悔しました。耳に入る波の音が、少しだけ火照りを冷ましてくれるようです。

「毎年颯馬さんと見れたのなら、とても、とても嬉しいです。海でなくても、なんでも」

 絞り出した様な声で、思いの半分も伝えられないようななんでもない事しか言えない自身が憎らしいです。でも本当に毎年颯馬さんの隣でこうして見ることができるなら、どんなに幸せか。今の年度が終われば颯馬さんは最高学年、いまよりもお忙しくなります。そんな中でこうしたふとした時間を共にできたなら。それほど嬉しい事はないでしょう。

「ではつぎは紅葉狩りにでも。あぁ秋なら秋祭りもそこかしこで行われて……そう、以前行った夏祭りがとても楽しかったのでな。ならば秋祭りは是非▼殿と、と。近頃受けた仕事の中には秋が見ごろと広告をうっていた植物園もあってだな」

 ぽんぽんと。まるでお手玉のように颯馬さんの口から言葉が飛び出てきます。声まで弾むようで。楽しみにしてくれているのでしょうか。わたしと、と。そう言われるたびに、カッと熱くなるような、じんと痺れるような、そんな喜びが胸に湧くのがわかります。
胸がいっぱいで言葉をつまらせているわたしを心配したのか、颯馬さんが首をかしげます。それに大丈夫ですと返事をして、落ち着くために海を眺めます。納得したようにうなずいていた颯馬さんが、ふいにパッと明るい表情でわたしを見下ろしました。

「昨日、鬼龍殿から不要だからとてーまぱーくのぺあちけっとなるものも譲っていただいたので。▼殿さえよければ次の休みにでもいかがだろうか!仕事で行くことあれど、細部まで見ることはできぬので。我も興味がつきぬし」

 それは、それはとても、デートのようですねと。返すこともできずに、今度こそわたしは顔を覆いました。
 
ALICE+