何者でもなかった頃


 燃える夕日のような瞳が瞼に隠れていること、耳を澄まさなければ聞こえない寝息を確認してから、▼はじっとセノの顔を眺めた。
 職業柄……もはや職業病だろうか、寝ている間も気配に敏いセノは▼が起きただけでも目を覚ますことが多いが、たまに▼がこうして寝顔を眺められるくらいには熟睡する時がある。
 月に照らされた稜線を視線でなぞると、▼は幼い頃に見た冴え冴えとした月光と静寂に満ちた砂漠を思い出す。あの頃は、もっとたくさんセノの寝顔を見ることができていて、零れる自分の名前や寝言に耳を傾けては彼を起こさないようひっそり笑っていた。
 ▼は自分のことを物事を単純にとらえて、あまり過去にも頓着しない人間だと思っているが。そんな自分にしては珍しく、ただのセノと▼だった頃が無性に恋しくなることが、本当に、本当に時々あるのだ。土地に執着のない▼には郷愁というものがわからないが、きっといま自分が抱いてる感情はそれに近いのだろう。未来という遠くに来て、過去という故郷を恋しがっている。いつかもっと遠くへ行く時、きっと今日と同じような恋しさを抱くのだ。
 眠るセノの頬にそうっと唇で触れてから目を閉じる。
 金色の大地を、ふたりで駆ける夢が見たかった。




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