夢魘


「悪夢を見る酒?」

 訝しげなセノの言葉に頷いたカーヴェは手に持っていたボトルのラベルをなぞる。彼が何かしらの善行の礼として貰ったらしいそれは、遥々モンドからやってきた酒だという。「飲むと必ず悪夢を見る」という迷信が付き纏っているらしく、それを聞いたティナリとセノはカーヴェはお礼ではなく厄介な品を押し付けられただけなのではとため息をつき、そういったことに慣れているアルハイゼンだけは涼しい顔をして「それで?」と話の先を促す。
 結果的に言えば四人ともその酒を飲むことになった。様々な説明は省くが現在スメールはアーカーシャを停止し、その影響で大人でも夢を見るようになっており、全員その「悪夢」とやらに興味があったのだ。このテーブルに集っている四人は皆教令院を出ており、知的好奇心旺盛であることが共通点と言ってもいいだろう。
 モンドの酒といえばワインというイメージが強いが、四つの杯に注がれた液体は黄金色のミード。見目や香りからして果汁やスパイスが加えられた様子はなく、古典的な製法のものに思えた。口をつけた酒の味に変わったところは感じず、それは周りの三人も同じだったようで、それぞれが感想を言い、悪夢についての考察を述べる。アルコール自体は強いものだったが皆特別酔った様子もなく「眠らなければ夢はみれない」と解散し、セノもまた帰路についた。
 時間を忘れた瞑彩鳥の鳴き声を遠くに丸い月の照らす夜道をたどり、住み慣れた我が家の戸を開ければ家の中の灯りは消えていた。少し遅い時間ということもあるが、▼は用事がなければすぐに寝てしまう人間のため珍しい事でない。
 身を清め、眠気が来るまでは本でも読むかと読みかけだった本を手に、先に眠っている▼を起こさないよう寝台の端に腰掛ける。月明りだけでも十分文字は判別できたが、普段暗い所で本を読むなと妻に言われているため大人しく小さな灯りをともす。セノの目が追うモンドの童話はあの風と自由の国のイメージに違わず牧歌的で、のびやかな草原は本の中にも同じようにひろがっていた。
 しばらくそうして文字を追いながら背後の柔らかな寝息を聞いていれば、睡魔は緩やかにセノのもとへやって来る。スメールローズの栞を挟んで本を閉じ、灯りを消して寝転がれば▼のあどけない寝顔が月光に照らされていた。もにゃもにゃと動く口元がかつての赤子のようで、微笑みながらセノはその頬を撫でる。細かな傷の多い手でさらさらとした肌に触れてしまえば、悪夢という言葉などすでに頭から離れていた。
 おやすみ、と小さく囁いてセノは目を閉じる。
  
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 風車が回っている。
 「風車は風神がふぅと息を吹きかけて回している」そう頭の中で呟いてからセノはあたりを見回す。暖色の屋根が並ぶ、以前来た時と変わらないモンドの城内の様子。マハマトラの印章のついた鞄を肩にかけなおし、セノは止めていた歩みを進める。目抜き通りではなく鍛冶屋の前を通り過ぎて路地に入る、黒いローブをすっぽりとかぶった人間を物珍しそうに追う視線はあったが、教令院でつねに恐怖の対象であるセノにとって気になるものではなかった。
 湿気も砂も混じっていない、ただただ穏やかな風が頬を撫でてフードを揺らした。

「それじゃあ、夕方ね!」

 明るい声にセノは振り向く。聞きなれた、誰よりも耳になじんだ声だったが、彼が思い浮かべた少女はいま行動を共にしていない。リスよりも軽やかな足音をさせた声の主は城内の多くの人々と同じようにモンドの装いをしている、モンド城にいても何も可笑しくない、自由の国の少女の姿。
 しかしセノが指の一本も動かすことができなかったのは、その少女の顔が知恵の国で自分を待つ妻の顔と寸分違わなかったからだ。妻の出身はモンドだが親兄弟はいない、血の繋がりのあるものはゼロではないが、年が近い人間はいなかったと記憶している。顔が似た人間なんてたくさんいる、世には同じ顔をした人間が三人はいる、そうかもしれないが、セノにとって今回ばかりはそうではない。赤ん坊の頃から現在までその変化を見てきた愛する者の顔なのだ、見間違えようもない。
 萌ゆる若草は、大赤砂海の夕日のようなセノの瞳を見ない。
 セノの横を通り抜けた少女は近くの建物の戸を開ける。家の中の誰かに帰宅を知らせる「ただいま」の声、それに応える声は木製の戸が閉まったことでくぐもって不明瞭だ。男のようでも、女のようでもあった。
 数秒の後、やっとセノは無意識に止めていた息を吐く。ふいている風は先程と同じ穏やかなものであるはずなのに、今は見えない悪意がセノに無理矢理何かを見せようとしているように感じた。風の向かう先、少女が消えていった建物の戸の近くに木札がかけられていたことに気付く。
 一歩、二歩前に進んで、その木札に刻まれた文字が確かに読める距離になった時、セノは足を止めた。

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「――▼?」

 すっかり太陽の光が降り注ぐ寝台の上でセノは視線を巡らせた。寝台の上はセノひとりしかおらず、開けた場所は誰の体温もない。起き上がったセノは枕元に置いたままだった本を見やり、彼にしては少々荒々しく本棚に戻して寝室を出た。
 セノはそう広くない自宅で▼の姿を探す。すでに太陽が高い位置にあるので買い物に行ったのかとも思ったが、冷静になれば耳が生活音を拾った。焦燥感を抱いている自覚はあったが、己のあまりの焦りようにセノは自嘲する。
 少し落ち着いた足取りで調理場を覗き込めば見慣れた後姿が忙しなく動いていた。セノの気配に気づいた彼女が振り返って笑う。そのことに、ひどく安堵する。胸の中にあった砂嵐のような暴風はすぅと消え去って、巻き上げられ積もった砂が焦燥を覆った。

「おはようセノ! 今日はお休みって聞いていたから起こさなかったけど、……どうかしたの?」
「お前が……いるなと思っただけだ」
「二日酔い?」

 違うと否定して水差しの中身を注いで煽る。▼はセノのその様子を見てやはり二日酔いなのではと、顔を顰めて腰に手をあてた。頭に響くと思ったのだろう、普段より少しばかり小さな声で「もう」と唇を尖らせる。

「昨日はカーヴェさん達と一緒だったんでしょ? セノのことだから周りの人に迷惑なんてかけないと思うけど、あんまり飲みすぎちゃダメだよ」

 そう、カーヴェだ。セノは大きなため息をついて、昨夜みた酒の存在を思い出す。
 不思議なほどはっきりと覚えている夢の内容を反芻する、確かに悪夢だった。もしあれが酒の影響であれば、悪夢を見る酒というのは迷信ではないのだろうが、何故そんなことが起きるのかを考えるより先に、カーヴェにあの酒一本分のモラを握らせて処分しようかと考えた。あのお人よしの建築家は知り合いが悪夢を見たとなれば処分を許すだろう。

「▼」

 知恵の国に届いた異国のもの、砂海で見つけた命の芽吹き。真名を知らない、俺の▼。
 見つめる若草色の瞳はグラマパラの狂気を取り除いた光の色に似て、セノは己の心に絡んでいた悪夢の記憶が解けて消えていくように思えた。完全に夢から抜け出し、そうしてようやく大切な事を思い出す。

「おはよう」




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