風が峡谷を吹き抜ける音だけが聞こえる。
生活の痕跡を多く残したこの場に、人間の活動する音は聞こえない。セノが目を通した報告書によれば、調査のため足を踏み入れた時には整えられていない寝具や調理途中の食材などもそのままになっていたらしい。ある一点で生活がふつりと切れて、住民全てがいなくなってしまったような錯覚さえあったという。……今もあちこちに点在する血痕や、古びた石材についた真新しい刃物の跡さえなければ、だが。いつだって飢えた赤鷲の影が砂の上を走っているような場所だ、砂漠において死体の処理はそう難しいことではない。
「セノ!」
場違いなまで明るく響いた声に顔をあげれば、木製の足場から▼が飛び降り、綺麗に着地をするとそのままセノの足元に座り込んだ。しなやかな足がぷらぷらと宙を漕いで、つま先がテントの形をなぞる。
「本当に誰もいないんだね、ここ。えぇと……」
「タニットの露営地だ」
「そう! 来る途中に少し教えてくれたよね、花神を信仰していた部族だったっけ」
「ああ、この一帯ではそれなりに幅を利かせていた一族だ。残されているものを見るに、色々と画策していたようだったが……」
セノの瞳が誰もいない露営地を映す。
風砂は砕け散った野心の痕跡も覆い隠してしまうだろう、砂漠とはそういうところだ。流れる砂のように人の命と営みは生れて消えていき、ほんのひと握りの人間だけが砂に僅かな形を遺す。この地に住んでいた誰かも、砂に爪を立てたかったのだろうか? その誰かも、もう砂の下だろう。
「彼等は結局、何も得られなかったんだな……」
「ふーん、そうなんだ」
事実に対する肯定が返される。
砂混じりの乾いた風が通り抜けても、▼の表情は変わらなかった。