「海を見に行こう」

 セノが▼にそう言ったのはもう随分と前だった。
 マハマトラとしての道が確定し、教令院卒業だけが控えた時期。モラトリアムというには短すぎる期間のうちの数日で、セノは▼を連れてシティからオルモス港への道を辿る予定を立て。話を聞いたふたりの養父のジュライセンが「少し早い祝いに」と手配した船でアルダラビ河を南下しオルモス港へ向かった。
 その頃の▼はというとあまりシティの外へ出たことはなく、ゆっくりと進む船の上から煌めく河の水面を見つめ、通り過ぎる動物や植物を指さしてはあれはなにかとセノに訊ねた。小旅行が楽しいのか、セノがなんでも答えてくれることが楽しいのか、始終ニコニコと満面の笑みを浮かべている姿は可愛らしく、「あまり身を乗り出すなよ」と言いながらもセノの顔は優しく緩んでいる。

「セノ、オルモス港ってどんなところなの?」
「あそこに大きな樹が見えるだろう、あそこの根本にあるのがオルモス港、スメール最大の貿易港だ。つまり……そうだな、色々な国の物があるし、色々な国の人間がいる。お前の好きな海魚も新鮮なものが食べられるだろうし、他国の菓子もある」
「お魚!」

 瞳を輝かせて喜ぶ姿に表情を崩したのは船に乗る他の人々も同じだった。
 飴色の肌が特徴的な砂漠の民のセノと、日差しなど知らないかのように白い肌をした異国の顔立ちの▼、同時に船に乗るにはちぐはぐな印象を受けたのだろう。自分と▼はきょうだいで紛れもなく家族だが、他者から見た時にそうは見えないのだとセノは理解している。元賢者の手配だったこともあり、様々な事情を抱えた客や人間性が複雑骨折したような客を乗せることに慣れた優秀な船員は最初は余計なことは言わないようにしているように感じられたが、▼の言動によって少しずつ和やかな言葉をかけられることが増えた。

「魚料理ならいい店があるから、港に着いたら教えますよ」

 船の護衛のために乗っている三十人団の青年の言葉にセノは礼を言う。順調にアルダラビ河を下れたのなら、昼過ぎにはオルモス港につくだろう。妹の楽しそうな顔を見ながら、セノ自身も久しぶりに家族のことばかりを考えられる時間を過ごせそうだった。
 教令院に入って数年、この妹の存在を蔑ろにしたことは無いが、寂しい思いはさせてきた自覚はあった。マハマトラになればセノがシティに帰らない日も多くあるだろうから、今よりも寂しい思いをさせるかもしれない。だからセノはあまり立場に囚われないこの自由な期間を▼とすごしておきたかったのだ。今までの埋め合わせになるとは思わないが、この妹が望むように始終一緒にいて、寂しい思いをさせない数日が欲しかった。可愛い妹のためであり、自分のためでもある。今回の旅行は義父のジュライセンも着いてきたそうにしていたのだが、彼の忙しさを知っているセノは丁寧に「二人でいい」と繰り返し、ジュライセンの署名を欲しがる多くの仕事の停滞を防いだ。
 船員との会話の合間、質問の合間、セノの名前を呼んでは嬉しそうに笑う▼の頭を撫でる。南下する船の上からでも視認できるオルモス港最大の特徴である大樹は、それなりの頻度オルモス港を訪れているセノも見る度にその巨大さに驚かされるが、▼にはもっと大きな驚きを与えたようで、ゆっくりと近づく大樹のてっぺんと船の後方にあるスメールシティの聖樹とを交互に見ていた。
 河の端に寄った船から木の板がかけられ、セノ達はしばらくぶりに地上に足を付けた。
 セノがオルモス港に来たのは少し久しぶりだ。論文のために足を運ぶこともあれば、単純に人に会うために来たこともある。国内外の人々で賑わうスメールシティとはまた違う活気に▼はきょろきょろとあたりを見回していた。その様子を視界におさめながらセノは護衛の青年に店の場所を聞き、後金と一緒にいくらかの心付けを渡す、きっと彼らの昼食になるだろう。

「▼、先に宿に行くぞ」
「海見たい……」
「宿が先だ、荷物が濡れたら困る」

 こればかりは譲れない。セノが手招きをすると「はぁい」と返事をした▼が隣に並んで歩き出す。
 シティは土や木々の匂いが強いが、オルモス港は潮の匂いが強い。すれ違う人々は冒険者協会の冒険者や教令院の学生、三十人団といったシティでも見なれた服装の人々もいれば、フォンテーヌや璃月の服装をした人もいる。何に気を付けて歩くべきか、そんな小さなことも同じスメールだというのに違う。
 セノにとってはある程度慣れたものであっても、興味津々な様子の▼にとってはそうではない。知らないことを知る。知識と経験をつむことは己の世界をひろげることだとセノは身をもって知っている、だから、妹にも同じように様々なこと知り、経験をして世界をひろげて欲しかった。それが彼女の幸せに繋がると強く思っているからだ。
 大樹の根元に潜るように存在している市街、ジュライセンが手配してくれていた宿にチェックインをして部屋に荷物を置く。よほど海を間近に見たいのか、早く行こうと目をきらきらさせている▼がずっと袖を掴んでいるのでひとまず撫でて落ち着かせ、セノはタオルと着替えと貴重品を鞄に詰める。

「ねえねえ、海って冷たいの?」
「今の時期の水温はそう低くないはずだ。一応言っておくが、今回は泳がせないぞ」
「分かってるもん」

 オニフグのようにぷぅと膨らんだ頬を指で突いて、セノは▼を連れて宿を出た。昼時はとっくに過ぎているが、港にはいくつかの屋台がでているので▼が本格的に空腹を訴える前に軽食でも買えばいいだろう。ジュライセンに渡す貝殻を拾いたいと▼は言っていたが、オルモス港は海に面しているが整備されているため砂浜に直に触れる場所というのは実はあまりない。東西に少しはずれるか、ファロス灯台の足元に行くか、どちらにしろ少し歩く必要がある。
 灯台を目指し、セノの少し先を進む▼の弾むような足取りが、一度跳ねると駆け足に変わった。
 大樹の影から出て視界が開けた先、太陽のもとでジュライセンの家にある書籍の文字を全部つなげても端から端までたりないような青い海が続いている。視界にぴんと張った一本線が描かれたような海面にぽつりぽつりと船が浮かび、空に鳥が飛んでいることでそこに奥行きがあり、この海の向こうに世界が続いているのだと感じる。
 ざわざわと胸の奥が鳴って自分がちっぽけなものに思えるこの感覚は、ジュライセンに連れられて行ったパルディスディアイで生命の芽吹きに触れた時や、金色の砂漠の砂粒が夜静かに煌めいていた時に感じたものだ。▼はじっと海を見つめて波の音に耳を傾け、世界の一端を知ろうとした。

「▼」

 名を呼ばれてはっとした▼はいつの間にか隣に並んでいたセノを見ると、その袖をぐいと掴んで海を指さす。興奮気味に「おおきい」「すごい」と並べ、しばらくいくつか感想をこぼしていたが言葉がたりなくなると青い海を見た。その瞳が日差しをうけた海面のようにきらきらと輝いていたのでセノは眩しげに目を細める。この瞬間、セノは▼を通して、▼と同じように世界の美しさを知るのだ。
 にへ、と▼が笑う。

「セノ、海って綺麗だね」




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