昼過ぎ、家のドアが頤を鳴らすと、▼は手の中にあった繕い物を放り出して一直線に駆けた。軽い足音は養父であるジュライセンではなく、▼の兄のものだ。同じように聞き馴染みのある足音で妹が飛びついてくることを予期していたセノはごく自然にそれを受け入れて、柔らかな手つきで頭を撫でた。普段と変わらないやりとりに喉を鳴らす猫のように満足気に擦り寄り、じゃれついたままセノの歩みについて行く。
「セノ、今日はお仕事が早く終わったの?」
「ああ、そうだ」
マハマトラの仕事とて、全てがシティの外に赴くわけではない。まだ先輩であるタージの補助的な役割をしているセノは、地道な調査や資料集めの結果をマハマトラの事務所でまとめていることも多い。そうでなくともマハマトラは案外書類仕事なのだ。今日も教令院での仕事だと察していた▼は予定よりも早い兄の帰りに喜色満面にくっついて回った。
「さすがに先生はまだ帰っていないか」
「先生は今日遅くなるって家を出る時に言ってたよ! セノはお昼ご飯食べた?」
「あっちで済ませてきたよ」
暫くリビングで他愛のない話をしていたセノが睡魔に瞼を撫でられているのを見た▼が「部屋でお昼寝しようよ」と言うと、昼寝については頷いたセノだったが、▼が同衾することには難色を示した。当然むぅと頬を膨らませた▼だったが、ジュライセンから頼まれていた繕い物が途中であることを思い出して自室に向かう兄の背中を見送った。頼まれ事を放り出して共に昼寝をすることを▼は許さないし、セノもまた許さないだろう。
そうして一人のリビングで少しずつ養父が穴を開けた教令院の制服を繕っていると、家のドアがノックされる。はぁいと返事をし、鍵を開けてドアを開くと見知った顔があった。それはセノがよく世話になっているタージというマハマトラで、▼も既に何度か顔を合わせたことがある。養父や兄からの話だけでも良識的で模範的なマハマトラだという認識を抱いた彼は、やはり話の通りの人間で、今も「鍵を開ける前に扉の向こうの人間が誰か確認しなさい」と少し厳しい顔で▼に忠告した。
「えへへ、次から気をつけます。タージさんはセノに何か御用ですか?」
「ああ。明日の仕事について伝えたいことがあったんだが、もしかして寝ているのか」
「そうです。帰って来てちょっとしてから寝始めて、そういえばもうそろそろお夕飯だから、結構経ってるかも。起こさないとダメですか?」
「いいや、寝かせてやってくれ。今日は体調が優れないというから帰らせたんだ」
その言葉を聞いた▼が目を月のようにまん丸にしたあと、顔を合わせた回数の少ないタージでさえ分かるほど目に見えて萎びていく。炎元素をあてられたトライステート生物のような様に驚きながらも、タージは「聞いていなかったのか?」と問う。
「セノは何も言わなかったから、体調不良だなんて思わなかった……」
「君を心配させたくなかったんだろう。父や兄というのは、だいたいそういうものだ。仕事は何も問題ない、明日は休んで構わないと、セノに伝えておいてくれないか」
「わかりました、ありがとうございます」
帰路に着くタージの背中を見送ってから、ゆっくりとドアを閉める。セノが起きたら伝えなきゃと頭の中で繰り返しながら、▼はとぼとぼとひとりのリビングに戻った。
しんと静かなリビング、豪奢な絨毯のうえで大の字になって、▼は考える。
セノに体調不良を黙られていたことがショックなわけではないのだと思う。きっと、一緒にいた兄の体調不良に気が付けなかった己の不甲斐なさが嫌なのだ。セノが意図して隠したのであれば▼が気付くことができないのも不思議ではないが(幼い頃と違い、セノも物事を隠すことが上手くなっている。良くも悪くも)、それでもやはり不調には気付いて助けになりたい。それは我儘なのだけれど。
そうして、沈黙だけが転がった。
「▼?」
「なぁに」
起きてきたセノがあまりにも静かなリビングの様子に存在を確認するように名を呼んだので、▼は大人しく返事をする。セノは下方向からの返事に「先生が帰ってきたら踏まれるぞ」と注意をし、そして自分が寝る前にはなかった沈んだ気配に「何かあったか?」と続ける。
「タージさんが来て……仕事に問題はないから、明日は休んで大丈夫だって言ってた」
「わざわざ言いに来たのか……。分かった、ありがとう」
「体調、大丈夫?」
「ああ、問題ない」
問題ない。その言葉にじっとセノの赤い瞳を見る。
「それは、セノが動くぶんには問題なくて体調は悪いの? それとも体調が良くなったの?」
「……俺が動くぶんには問題ない」
「じゃあ寝てなよ」
「▼、何を拗ねているんだ?」
ほんの少し困った顔のセノに▼は黙った。彼を困らせたいわけではなかったのにと後悔をしても遅く、今度はセノが▼の緑の瞳をじっと見つめている。▼がそうであるように、セノも目をそらさない人間だった、そのような小さなことがふたりはよく似ていた。だから▼は自分が何か回答しなければセノの目が自分からはなれることがないと分かっていて、数秒の沈黙の後ぽつぽつと話始める。
「拗ねてるわけじゃないもん。セノが体調悪かったこと、気付けなかったのがやなの……」
「いじけているわけか」
そうだ、いじけている。セノは絨毯のうえでぺしゃんこになったままの▼の隣に座って、子供特有の柔らかさが残るザイトゥン桃のような頬を指の背でやわく撫でる。「セノ」と甘えた声で名を呼んだ▼は、平時より少し熱いセノの手に頬を擦り寄せてから、もぞもぞ起き上がってそのまま抱きつく。傍から見れば父子なのか兄妹なのか恋人なのか分からない様子だが、ふたりはずっとこうして兄妹をしていた。めいっぱい抱きついてくる妹の背をあやすように優しくたたいて、腕の中に慈しみの声を向けた。
「俺も次からはなるべく言うようにする。ただ分かっていて欲しいのは、あえて言わない時もあるっていうことだ。少し休めば何とかなるような、伝えるほどでもない不調もある。だからそう、いつだって、俺のことでお前が気にしすぎる必要はない」
「うん……」
「不満か?」
「まだわかんない……」
「そうか」
素直な言葉に柔らかな声色で返して、セノはまだくっついたままの体を撫でる。柔い手はささくれだった心を落ち着けて、▼は自分の中で考えをまとめられた。
気付かなれば仕方がない。自分が気に病んだところでセノの体調が良くなるわけでもないし、逆に心配をかけてしまう。セノの自己申告か、自分が気が付いた時に適切な行動をすればいい。そういう事にして、▼は自分の中でこの件を終わらせた。
そうなれば、次に必要なのは「適切な行動」だ。
セノに抱きついていた腕を緩め、額と額を合わせて熱を確認し、甘えるように頬を擦り寄せてから離れた。常備薬の残数とキチュリの調理にかかる時間を考えながら▼は立ち上がり、キッチンに行くとジュライセンが部屋に篭もる時によく使う一番大きな水差しに水を注ぐ。
絨毯のうえにおいていかれた形になったセノは、まぁそれもいつもの事であるので、椅子に座ってクッションに身を預けながらテキパキと動く妹の背中を眺めていた。▼が水差しとコップをテーブルに置いて引っ込むと、水を飲みながらキッチンの物音を聞く。しばらくして思い出したようにリビングの箱から来客用のブランケットを出した▼に数枚上からばさばさと掛けられると流石にジト目で彼女の顔を見た。
「セノ」と名を呼ぶ声には甘えたがりがなりを潜めて、配置された歯車のような整然さがある。切り替えの早さは妹の美点だ、次に▼の口から出る言葉もセノはなんとなく予想がついた。
「寝てていいよ」