月光と灯し火



 草や土が踏みしめられ、ナッツの砕ける音がする、それは二本足の駆ける音。数秒たって草木の間から姿を現した子供の大きさは▼の腰にも満たない。この子供が来て何年経ったか、狼より緩やかで自分達より早い成長をする人間はいつの間にか大きくなっている。この子供に名前はない、つける権利は▼になく、本来つけられるべきだった名前を知る術はない。

「ん」

 ぐいぐいと▼の服を掴んで森を進もうとする子供の手を、一度立ち止まってはなす。両者が転倒する原因になりかねない。手を離してもついてくると分かった子供は、▼の元に来た時と同じように森を駆けた。背の低いググプラムの木や生い茂る草のなかにその姿が消えてしまっても問題は無い、人間の群れから離れたこの静かな奔狼領の森で人間の気配は色濃くみえる。駆ける子供も、その進行方向にいる少し大きな人間にも、▼とルピカ達は気付いている。

「うー……」

 大人しく立ち止まって待っている子供が小さく唸る先。先といっても距離はある、狼とすごした子供は狼と変わらぬ感知能力を備えていた。自分達からしか見えない場所に、先程感じた少し大きな人間達がいる。
 暗闇の中で青い髪は目立つ、隣にいる赤い髪は闇に馴染みはするが見覚えがあった。彼らはつるりとした装飾のランプひとつでこの闇を歩いている。剣を帯びているが、生き物への害意は感じない。
 モンドの人間であれば普通奔狼領には近付かない、故にこの子供はルピカになってからいままで人間を見た回数が少ない。この静かな森に人間が入ってきたことに驚き、▼に知らせに来たのだろう。どうすればよいのか聞くように赤い瞳はじっと▼を見ている。
 何もしなくていい、彼らは森に何もしないだろう。
 ルピカ達にするように子供の頭を撫でると、理解したのか子供は少し気の抜けた表情で▼に抱き着いた。動きにくいので抱き上げてやればすりと身を寄せ、そしてじっと二人の人間を珍しげに見ている。

「あれが、お前が戻る場所に生きる者達よ」

 ▼の声に不思議そうに首を傾げた子供に人の言葉は通じない、彼はまだ狼だから。それでもいつか、ルピカとして受け入れられた子供は人間としてモンドの人間の群れに戻るだろう。狼と人は違いすぎる。形成する社会も、生態も、人間が生きるには難しい。王狼の考えは分からないが、少なくとも▼はこの子供は人間に戻るべきだと考えている。
 ランプの光が遠ざかる。狼たちの視線に背を向けて、森の浅い場所へと進んでいく。彼等は帰るのだろう。▼も子供を抱えたまま森の奥深くに帰ろうと足を踏み出した。
 ランプの光がなくとも▼は闇の中がよく見える。夜空に手を伸ばす奔狼領の樹木、踏み出した足を避ける虫達、ルピカの足跡、転がっているナッツや、うとうとと眠そうな子供の顔。月の光が照らすところも、照らさないところも、王狼と同じ瞳は等しくうつした。
 ずうっと昔にきいたモンドの子守り歌を口ずさんで、▼は森を歩く。子供が眠って歌が止まると、森は月光が上から下に流れる音が聞こえそうなほど静かになった。




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