▼は己の胸の内に、しんと静まった真夜中に覗き込む洞窟のような、深く暗い穴が口を開いてることを知っている。
何故そんなものがあるのか▼にはわからない。一般的な意見なら環境がそうしたというのかもしれないが、▼の周りにはセノやジュライセンといった愛と誠実をもって育ててくれた人達が、そのように接してくれる人々がいる。砂漠はもちろん雨林のなかでだって珍しいくらい恵まれた環境で育ったと、そう理解している。だからきっと、この胸の内の空虚というものは生まれ持ったものに違いない。顔も名も知らぬ母の胎のなかに何かパーツを置き忘れてしまったから、もう埋まることの無い穴が空いているのだろう。
寝台から見上げる窓の外は、胸の中のようにしんとしている。
セノの寝息を聞きながら、月明かりの中で▼はぼんやりとしていた。起こしてしまうといけないからと寝返りも控えめに、捕まえ損ねた睡魔が戻ってくるのを待っている。視線の上、セノの飴肌の色は白く長い睫毛が綺麗に並ぶのがよく見えた。家の周りに住み着いている野良猫が真っ白なことを思い出して、猫のふわふわの毛並みとセノのふわふわとした髪を重ねる。撫でようか、どうしようか、ゆっくりとセノに伸ばした手が迷っていると、ぱちりと視線があった。起きている。
「眠れないのか」
「起きちゃったの」
「おいで」
セノが優しく寝具をたたく。横になっている時の利点は、あまり身長差のないふたりでもすっぽりと頭を胸におさめられることだ。小さな頃そうしてもらっていたように、誘われるままセノの胸に頭を落ち着かせて▼はその心音を聞いた。頭を撫でる手にうっとりと目を閉じていると、頭の上から控えめに、少し拙い旋律がきこえてくる。これは砂漠の歌だ。烈日が隠れて空気が冷えたなか、焚き火を囲んで踊る女たちが歌っていた歌。あの大赤砂海では文化が文字で伝えられることが少ない、人から人へ口伝で伝えられるものの一つが歌謡だ。
いつの間にか草木を叩きはじめた雨音とセノの声が、▼の中におちてくる。雨林のものに囲まれて、砂漠の歌をきいて、どちらでもない▼は少しちゅうぶらりんな気持ちであたたかな掌を感じていた。
ずっと昔から、幾つもの夜をそうしていたように、自分を寝かせようと慣れない歌を歌うこと、優しく抱きしめて撫でること。昔から変わらないセノからの愛だ。己に埋まらない穴があること、それもまた昔から変わらないこと。
そんなどうしようもないものがあって、それでも▼は己に落ちる愛が虚に落ちてゆかないようにひとつひとつ掴んでは大事に抱いている。▼が一番好きで、大事にしているセノがくれるものだから、なにもなくしたくはないのだ。
永遠に日の落ちぬオアシスを語るうつくしい歌が終わって、セノの唇が▼の額におちる。▼のもとにまだまだ睡魔はやってこなかったが、セノは自分よりも眠たげな気配をさせていた。彼がはやく寝ますようにと、隙間のないよう体を擦り寄せて体温を分かち合う。猫のように喉を鳴らすことができたのなら、親愛も安心ももっと共有できたのかもしれないが、人間の▼にはこれが精一杯だった。
セノは夢をみないが、彼の眠りが良いものであるよう祈る。「おやすみなさい」と心のなかで呟いて、雨音と心音と呼吸音に耳を傾けた。