ナツメヤシよりも高い書架は見ているだけで首が痛い。一番上の段に収められた書物が読まれたのは、一体何年前なのだろうと▼は疑問に思った。砂漠に秘された沈黙の殿の一角、書架がずらりと並ぶそこは知恵の殿堂に似ている。知識の集う場所であるので、間違いではないだろう。
静かなホールに場違いに思えるような……実際には誰よりもこの場に相応しい人間の、晴天のように明るい声が響いた。呼ばれた名前に▼が振り返ると、長い髪を揺らしてセトスが歩いてくる。
「ごめんごめん、待たせたね。預かり物があるって聞いてるよ」
「うん、ジュライセン先生からの預かり物なの。昔、ここを離れる時に持ち出しちゃった本なんだって。これをどうするかはセトスに判断して欲しいみたい」
「本?」
▼から手渡された包みを取り払うと、彼女の言う通り一冊の本が出てくる。なめし革の表紙のそれは沈黙の殿の他の書籍よりは薄く、経年の劣化が見られた。ぱらぱらと中に目を通す限り、セトス達が代々守り伝えてきた書物ではなく、一般に流通しているもののようだ。沈黙の殿は人の寄り付かない砂漠にあるが、それでも必要であれば再び手にすることができるような本、もしかしたら探せば同じものがどこかの書架にあるかもしれない。
一般的に考えて勝手に持ち出したものを返すのは当然だが、わざわざセトスの判断を仰ぐのか。ただ返すだけなら、事情を話して沈黙の殿の誰かに渡せばよいのだ。疑問を持って二秒程度ページを捲っていた指が、行間に並ぶ手書きの文字を見て止まる。二つの筆跡の片方に、セトスはよく見覚えがある、もう片方はきっと▼にとって見覚えがあるものなのだろう。
この本には、バムーンとジュライセンの書き込みがされていた。ジュライセンの綴った雨林での通説を批判するバムーン、バムーンの古代キングデシェレト文字を解読してから文句をつけるジュライセン。血塗られた名を背負う者と雨林の学者ではなく、ただの二人の人間の言葉が文章の合間に挟まり、時には余白を埋めている。
何故ジュライセンがこの本を丁寧に返したのか、判断を自分に任せたのか、セトスは納得した。これは祖父の持ち物で、遺品で、祖父とジュライセンの思い出の品だ。
軽く頷く仕草に、▼が「どうするの?」と尋ねてくる。
「勿論、これは僕が受け取るよ」
「良かった、先生にもそう伝えておくね」
「うん、そうしてくれ」
そう返してから▼の緑の瞳を見て、セトスはふと祖父の部屋に保管されていたものを思い出す。
バムーンが亡くなり、親族として彼の部屋の整理をした際に出てきたのは、十数年前に沈黙の殿を去った三人――ジュライセン、セノ、▼の私物だった。勿論、彼らが使っていたもの全てではないが、ある程度の量がある。今の彼らに必要か分からないが、先程セトスがしたように一度見て判断してもらうのが良いかもしれない。
「▼、沈黙の殿も君達に返すものがあるんだ」
「そうなの?」
「多分持って帰れる量だと思うけど……、少し待ってて」
うん、と頷いて▼はセトスの背を見送った。
たびたび物珍しげな視線を投げられながら、腰掛けた段差で振り子のようにぶらぶらと足を揺らす。セノにとってそうであるように、沈黙の殿はかつて▼が育った場所らしい。「らしい」なのは、▼自身がこの場所を覚えていないからだ。面白そうな書物がたくさんある場所、それだけで、特別な感慨はない。
今回、▼が「本を返したい」というジュライセンの頼みを聞いたのは、たったこれだけの事でセノの手を煩わせたくなかったということもあるが。なにより、ジュライセンが再び砂漠――沈黙の殿を訪れることを避けたかったからだ。
前首領を亡くした沈黙の殿は、新しい首領のもと落ち着きを取り戻している。最終的に上手く納まったとはいえ、跋霊のひとつがない十数年前は沈黙の殿の人間にとって大きな損害だったであろうことは▼も理解していた、故に、ジュライセンへの悪感情がすっかりと晴れる日が来ないことも分かっている。どんな場所にもふわふわと危険は存在するが、ある程度掴むことが出来る危険のある場所にむざむざ養父を行かせる気は無い。
ようは、▼はここの人間を信用していないのだ。いま帰りを待っているセトスのことだって、まだよく分からない。
セノはセトスのことを友人だと言うし、境遇が似たある種兄弟のような存在とも言う。大マハマトラとしても、セノとしても信用して、信頼している。一度会っていて素性も知っているセトスの事をわざわざ▼に改めて紹介したのは、▼にもセトスのことを信用して欲しいからだと分かっている。
「人懐こく明るくて、距離を詰めるのが上手で、きっと人を利用することができる人間」、▼から見たセトスはそういう印象だ。では、そういった人間をすぐに信用できるかと言われると少々難しい。セトスという存在が自分達にとって悪いものではないという認識はある、だから、彼を信用するために必要なのはきっかけや時間なのだろう。
先程見上げた時よりも更に背が高く見える書架を眺め、そこに収められた書物の数を数えてセトスを待つ。途方もない数の知識が、人を見下ろしている。
「ここの書物に興味があるかい?」
見上げていた視線を下ろすと、袋を携えたセトスが立っていた。気配を殺していたわけではないだろうから、▼は随分とぼんやりしていたようだ。立ち上がろうとした▼を目で制してセトスは段差に腰掛け、書架を見上げた。
「ここの書物に興味はあるけど、読む資格がないから」
「君も沈黙の殿の一員になる? ……嘘嘘、そんな顔しないで。それよりほら、これが君達に返すものだよ」
「結構たくさんあるんだね。本とか服とか……これは玩具?」
「そう、これは君達三人が沈黙の殿にいた時の私物だ」
よく十数年も保管しておいたものだ。袋の中には本やノート、衣類、護身用の短剣、フォンテーヌの懐中時計など、ジュライセンの私物と思わしき物が多いなか、玩具や短い葦の笛など子供の使いそうな物が混ざっている。
▼はやたらと膨れて、紙がいくつかはみ出している手帳を手に取って開いた。ジュライセンの物だと思い込んでいたそこに、見知らぬ筆跡が並んでいたので面食らう。約束の日時、品名や品数のメモや需要についての走り書き、個人的な情報、そういったものが数ページに渡って続いている。商人のものだろうか? 出てくる地名などからモンド人が書いたものだろう。
何故こんなものがここにあるのかと考えて、思い至る。砂漠の拾われ子・▼の肉体はモンドの血で出来ている、いつだったかセノがモンドで調査をして確かな身分も分かっていたはずだ(興味がなかったので▼はその結果を詳しく聞いていない)セトスが持ってきた荷物の中にある自由の国の物、きっとこれは赤子の▼を連れて砂漠へ来ていたモンド人の持ち物なのだろう。
バムーンはどうしてこんな物をこれまで保管しておいたのだろうか? ▼の疑問が顔に出ていたのか、セトスは緑の瞳を細めて笑った。彼は▼の待つ手帳のページを捲り、後ろから数えたほうが早いくらいの部分で指を止めた。蒲公英の綿毛が綺麗に押し花になっているページの隅に並ぶ文字、『名前が決まった、マリーステラ商会』。
砂漠で拾った名の分からない赤子を商会の名前で呼んだ、それが▼がジュライセンから聞いていた話だ。これが己の名の元か、と砂色が指し示す文字を目でなぞる。
「じいちゃんはきっと、この手帳が君が己のルーツを知る手がかりになると思って保管しておいたんじゃないかな。▼がそうかはわからないけど、砂漠の人間は己のルーツを大事にする人が多いからね」
「ふーん……」
零す▼の顔を見て、あまり興味がなさそうだとセトスは感じた、己のルーツというものは彼女にとって大事なものではないらしい。華奢な白い手のなかにある手帳は捨てられてしまうかもなと、自由の国を垣間見ることができたそれをセトスは少し勿体なく思う。
「どうするの?」聞いた言葉に▼がセトスの顔を見て黙る。この少女は自分に対してとりわけ警戒心が強いから、何を言うべきか思案しているのかもしれない、セトスは言葉を待った。
「ルーツがどうとかは分からないけど、十数年間保管してくれていたことは……有難い、のかな、と思うから。先生の友人からの、厚意への礼として受け取っておくね」
「……そっか、ありがとう」
沈黙の殿への不信感は未だ自分たちの間に横たわっており、目の前の少女はいまだに怒りを秘めている。それでも、前首領バムーンではなくジュライセンの友人バムーンとして受け入れ礼を言う姿に、自分達は歩み寄れるのだとセトスは笑った。裏表なく、単純に喜ばしいことだった。ここにきてからニコリともしなかった▼もつられたように小さく笑う。今日は、それだけでよかった。
「先生はきっと喜ぶから、ほかの物も全部持って帰るよ。この量なら一人で持って行けるし、大丈夫」
すべてを袋へ戻した▼が今度こそ立ち上がる、用事が終われば長々と滞在する気はないらしい。昔▼の世話をしていたべトレサは宿泊をすすめていたので残念がりそうだが、機会はいずれやってくるだろう、主に彼女の兄がそれをもってくるはずだ。あのもうひとりの跋霊適合者はセトスが少し驚くくらい親しげで、沈黙の殿を気にかけている。
同じように立ち上がったセトスをじっと見つめる▼の瞳は人間を警戒している猫のようだ、セトスが差し出した手に「何のつもりだ」を隠さない。いつも笑顔でいる▼がこのような態度を人にすることは珍しいのだが、それを知っているのはここにいないセノだけだった。同じようで違う緑色が絡み合う。
「送っていこうか?」
「ううん、いらない」