また、明日
後夜祭のあの夜、ガレリア要塞が消失した。
学院長からそう知らされた生徒達も、翌日の帝都時報に掲載された写真をみて愕然とした。生徒達だけではない、帝国に住む人々が、だ。
まるでアイスクリームのようにきれいな球状にくり抜かれた、無残なガレリア要塞の姿。前日から続けざまに起きていたIBCの資産凍結やクロスベルの国家独立宣言、そしてカルバード共和国の動きもあって。帝国全土がかつてない緊張に包まれていた。
それは士官学院も例外ではなく、生徒や職員もどこか落ち着かない。そんな日々が、あの夜から続いている。
それも当然だろう。士官学院に在籍する以上、本人たちの進路はどうであれ《士官候補生》だ。国家同士の諍いとなれば、ただの学生よりは軍属に近い立場なのだから。
(……あれ)
夜中に目を覚ましたリィンは、寮の中……廊下を渡り、階段をおりていくひとつの気配を捉える。シャロンかとも思ったが、彼女のどこか隙の無い足取りとは違った。
ベッドから起き上がり、静かにドアを開けて寝静まった廊下へ進む。
食堂で水を飲むついでに誰か確認できればいいだろう。まさか盗人の類ではないと思うが(盗人ならばそこれこそシャロンがどうにかしていそうなものだ)、女子もいる寮なので、警戒するに越したことはない。
足音を立てないように下りたロビーでは、食堂から僅かに光がもれているのが分かった。入口からそっと中を覗くと、見慣れた後姿が調理場に立っている。
息を吐くようにそっと名前を呼ぶと、肩を跳ねさせてから振り向く。寝間着姿のメリルがそこにいた。
「リィンさん、驚きましたわ」
「ごめん。この時間に誰か起きているとは思わなかった」
「少々寝つけなくて。なにかしようにも音を立てては皆さんの迷惑ですし、本を読んでいたらこの時間で」
「読書か。メリルはわりと読むスピードが速いよな。かなり進んだんじゃないか?」
ふたりぶん、椅子をひく。
いまは『赤い月のロゼ』を呼んでいるらしく。静かで暗い寮をひとり食堂までおりてくるのが少し怖かっただとか、だんだんと冬が近づいてきて夜空の星が一段と綺麗にみえるだとか。明日の授業についてだとか、他愛のない話をする。メリルが作ったホットミルクを飲みながら。
階は違えど皆が寝ているこの時間。小さなひとつの灯りにふたりで身を寄せ合い、声を潜めて行う談笑は少し鼓動を早くした。
広いテーブルの片隅。普段より椅子が近いそこで、くすくす笑うメリルの顔が思ったよりも近くてリィンはどきりとした。
小さな光に照らされた、二色の瞳がゆっくりと瞬きをする。綺麗な色をした唇が、己の名前の形に動き、夜に溶けてしまいそうな声が、耳から全てを占めていく。
相手に聞こえるはずのない胸の鼓動を誤魔化すように、リィンは話題を紡ぐ。
「そういえば、明後日は自由行動日か。メリルは予定はあるのか?」
「特にはありませんが。赤い月のロゼもそろそろ読み終わってしまいますし。ケインズ書房でなにか新しい本を探してみようかと思っていますわ」
「へぇ、それはいいな。俺もなにか参考になりそうな帝国史の本があればいいんだけど」
「トマス教官に聞いてみたらよろしいのでは?」
「トマス教官はその……話が、長くてな……」
ふたり、笑う。
手を温めていたマグカップの中身が空になった頃には時計の針は随分と進んでいて。リィンはメリルと一緒になって驚きながら、静かに後片付けを済ませて食堂をでた。
寮は、世界から切り取られてふたりしかいないように、静かだ。そんなことは、ないのだが。
赤くない月の光が窓から廊下に落ちている。
「それじゃあメリル。おやすみ、また明日」
「おやすみなさい、リィンさん。また、明日」
そう返すメリルの顔にどこか緊張のようなものを感じたが、リィンが再びその顔を見た時にはいつも通りの微笑みが浮かんでいた。折り目正しくお辞儀をしてから、階段を昇っていくメリルのその背中を見送る。結ばれずに流れ落ちている茶色の髪がふわふわと揺れ、それが見えなくなってから、リィンも自室へ入った。
温まっている体で冷たいベッドに潜り込み、目を閉じる。
このままやってくる眠気に身を委ねれば、いつのまにか日は昇り。目を覚まして食堂に行けば、シャロンの手伝いをするメリルに今晩の事を思い出しながら「おはよう」と言うのだろう。みんなで朝食を食べて、各々登校して。居室には最後にクロウがやってきて、呆れ顔のサラが教壇について。その日の学院生活がはじまる。
そう思って、疑わなかった。
それは、帝都のドライケルス広場でオズボーン宰相が声明を発表する、前日の夜の出来事。
::10/29、例の日の前日