酒は飲んでも
湯からでて浴室から脱衣所へ足を踏み入れる。ひやりとした空気が足元から這い上がるのを感じながら、体を拭き、洗濯された清潔な衣服に腕を通す。照明を消して脱衣所を出たリィンを、静かなリビングが迎える。時間は……23時だ。
いつもであればこの家にいる人物、メリルは今はいない。『たまたまサラ教官と会ったので、そのまま食事をしてきます』とARCUSに連絡があったのは自分の仕事の最中。積もる話があったとしても、連絡のひとつもないと流石にそろそろ心配になる時間だ。サラは遊撃士、メリルも護身はできるだろう、滅多なことはないとは思うが……。
塗れた髪をそのままに考え込むリィンの耳に、ドアチャイムの音が飛び込む。はっと顔を上げて玄関に向かい、息をするようにそのドアの向こうの気配を探る。2つの気配。
『リィン、いる?』
「サラ教官」
聞こえてきた声は紛れもなく恩師のもの。であればと、リィンは急いで解錠してドアを開ける。思った通り紅赤の髪をした女性が、灰色の髪の人物に肩を貸している。サラと、酔いつぶれているであろうメリルだ。どのくらい飲んだのかはわからないが、酒の匂いが纏わりついている。
「お願い」と渡された体を丁寧に受け止めて、リィンはメリルの頬を撫でる。起きてはいるのだろうが、どこか夢見心地なのか反応が薄い。熱い頬から手を離して、サラに礼を言う。
「ありがとうございますサラ教官。でも、連絡をもらえたら迎えに行きましたよ?」
「いいのよいいのよ、誘ったのはあたしだし。メリルと飲んだりゆっくり話す機会ってあんまりなかったから、つい付き合わせちゃった。悪いわね」
「相手がサラ教官だから付き合ったんですよ。そうでなければ、何かにつけて早めに切り上げて帰ってきているでしょうから」
「そういうとこは器用なのよねぇ、この子」
リィンに体を預けて目を閉じているメリルの顔をつついて、まるで子供ねとサラが笑う。なんの警戒もない無防備な姿でされるがままになっている様子は、子供というよりもっと小さい赤子のようだった。ともすれば寝息でもたてはじめそうなメリルをみて「はやくベッドに連れてってやんなさい」と、心配と別れの言葉を残してサラは夜の帝都に溶けていった。
その場からその背中を見送ったリィンは、メリルを支えながらドアを施錠し。今度はその体を横抱きにしてリビングのソファに座らせる。絨毯に膝をつきメリルを見上げると、何度か睫毛を揺らしてからゆっくりと目が開かれた。
「リィンさん」
「あぁ。おかえり、メリル」
「サラ教官、は」
「君を家まで運んできて帰ったよ。とにかく今日はもう寝たほうがいい。先に水、飲むか?」
リィンの言葉を理解しているのかいないのか、ぼんやりとした視線を投げかけてきていたメリルの体が突然前に倒れ込む。いまの一瞬で寝たのか、それとも具合でも悪いのかと慌ててその体を抱き止めたリィンの心配をよそに、メリルがころころと笑う。どこか幼さを感じさせる笑い声が、ふたりの部屋にばら撒かれる。
「リィンさん、あったかい」
「……すごく酔ってるな?」
ふたりして完全に床に落ち着いてしまった状態で、返事のかわりとでもいうようにメリルがリィンにぎゅうと抱き付く。メリルの匂いと酒の匂いが間近にある。首筋を伝った雫でリィンははっと、自分の頭が濡れたままだったことを思い出す。メリルまで濡れてはいけないとその体を離そうとして……諦めた。
過度な接触を行ってこないメリルが、こんな風に甘えてくることなど少なかったからだ。酒に酔った今日くらい、ひとりの家でまっていた今日くらい。そんな言い訳を並べ立ててから、抱き付いてくるその体に腕を回した。
「だいすきですわ、困ってしまうくらい。ふふ」
「困ってるのか?」
「えぇ、すごく。サラ教官に、リィンさんのはなしばかりしていました。そうしたら、リィンさんのことばかり考えてしまって。ずっとリィンさんに会いたかったのです。だからいま、リィンさんに会えて」
嬉しい、と。見ているこちらが蕩けそうなくらい緩められた顔で言われれば、もちろんリィンも嬉しかった。胸の底から、心の底から。しかし同時に腹の底から好くないものがものが首をもたげてしまいそうで、視線を彷徨わせる。相手の理性が解けかかっている。自分の理性の手綱は自分が握っている。その手を、緩めてしまいそうで。
彷徨わせた視線とふと空いてしまった沈黙を誤魔化すように、リィンはメリルの背中を撫でた。母親が子供にするように、一定の間隔で撫で摩る。リィンさん、と。またメリルが甘えるように名前を呼ぶ。
「あちらにいきませんか?」
酷い話だ、折角手綱を握りしめようとしていたのに。メリルの熱い指先はメリル自身の部屋でなく、リィンの部屋を指し示していた。言葉を詰まらせるリィンを知ってか知らずか、メリルがすりと頬を寄せる。布一枚通して、メリルの頬の熱さが伝わってくる。同じ熱に、同じ温度に引き上げようとしてくる。アルコールの香る、とびきり甘い声が至近距離から脳を揺さぶる。まずいな、と他人事のようにリィンは思う。さすがに酔っている人間相手に、なんてことは、良識と良心が咎める。
「おやすみ、ですよね?」
「いや別に休みじゃなくても、じゃなくて、メリル酔ってるだろう。今日は休まないと、明日が大変だぞ?」
リィンは半ば自分に言い聞かせるように言葉を絞り出す。はやく寝させなければ明日メリルが辛いからと。そのリィンの言葉に、メリルがぷくと頬を膨らませた。なんだそれはとリィンは思う。普段はそういった子供じみた、幼い仕草を見せることなどないに等しいというのに。自分にもっと余裕のある時にしてくれ、とも思った。不服そうな顔のまま、メリルがリィンを見上げる。二色の瞳に自分の困った顔がうつりこんでいて、リィンは少し、自分に同情した。
「じゃあいっしょに寝ましょう」
「そう、だな。メリルの部屋で」
「安心するので、リィンさんのベッドがいいですわ」
なにも安心できやしない。そんな言葉を吐きかけた唇をぐっと結んで、リィンは目を硬く瞑る。それをどう捉えたのか、メリルは運んでくださいというようにリィンの首に腕を回した。ええい儘よ、とリィンはそれに応えて床からメリルを抱き上げる。ゆっくりと立ちあがって、自分の部屋へ歩く。
多分。多分明日の朝、顔を真っ赤にするのはメリルだ。この様子だときっとベッドに運んだらすぐに寝てしまうだろう、温度をさげて、夢の中だ。でもリィンは違う。目が冴え切った状態で、熱が上がったまま、眠気が自分を叩き落とすまで。リィンはいまの時間を確認しようとして、止めた。その方が自分の為だと思ったからだ。
リィンさん。と、呼ぶ声が聞こえる。
「ずっといっしょにいてくださいね」
退路を断たれてしまった。あるいは、最初からそんなものなかったかもしれないが。
誰もいなかった寝具は冷たいだろうが、それがきっと己の温度を下げてくれるだろう。深い溜息をついて、メリルを自分のベッドにおろす。自分の横に寝ころんだリィンを見て心底嬉しそうに微笑むメリルを眺めて、先程と種類の違う溜息が出る。どちらかというと、身から溢れそうになる幸福を逃がすためのものだった。ずっと乱されている心を落ち着けるためだったかもしれない。
「ずっとここにいる」
そう言って顎から頬に、髪を撫でると、メリルは満足そうに眼を閉じた。数分としないうちにすぅすぅと寝息がきこえはじめる。あとはリィンが耐え忍ぶだけだが、まぁいいだろう。そう、リィンは思う。大事な人の寝顔を眺めるていられることは、幸せなことなのだから。そう、言い聞かせて。朝日が顔を見せるには随分と遠い夜空に少し泣きたくなった。
::同棲軸、酔っ払いと素面の人