催涙雨
「雨が」
掌を天へ向けたメリルがぽつりと零す。その言葉で空を仰いだリィンの頬にも雫が落ちた。朝から空には分厚い雲がかかっていた。やはり降ってきたなと灰色の空から視線をはずし、リィンはメリルが空に出したままの手を掴んだ。掌の中にある指先が一瞬ぴくりと跳ねて、それから、その指の持ち主がふわりと微笑む。
「酷くなる前に帰りましょうか」
「ああ。夜までには晴れればいいんだが」
「何か外に出るご予定が?」
要請中はお互いに単独行動は控えようと決めたのは、メリルがリィンの要請に同行するようになってからだ。今日一日の予定は情報収集。夜間は人が出歩くような街ではないため休息にあてようと、今朝話したばかりだった。だから、メリルが知る限りでは、夜リィンがどこかに行く予定はなかった。空より淡い灰色を揺らして、メリルは首をかしげる。
メリルの手を引きながらリィンが笑う。それから、何かを思い出すように進行方向よりもっと先、どこか遠く見るように目を細めた。
「小さい頃に師匠から聞いた話で、俺も細かくは覚えていないんだが……。7月7日は七夕という節句で。オリヒメとヒコボシという人物が年に一度だけ会える日、七夕の夜に空にかかった星の川を渡る。そういう言い伝えも一緒に残っているらしい」
「あぁ、なるほど。でしたら、確かに見通しの良い晴れがよいのでしょうね。しかし何故、オリヒメとヒコボシは年に一度しか会えないのでしょうか?」
「二人は働き者だったんだ。ただ、夫婦になってからどちらも働かなくなってしまって、それで神様が怒って二人を川を隔てて引き離した。そんな感じだったな」
「愛する方と一年に一度しか会えないだなんて、悲しいですわ」
空は、曇っている。もしこのまま天候が悪いままならば、オリヒメとヒコボシは年に一度の逢瀬さえできないのだろうか。遠い言い伝えだっだとしても、切ない話だ。もし、リィンと一日しか会えなくなってしまったら? 灰色の空から落ちる雨が、メリルの思考をぽつぽつと濡らしていく。雨粒よりも頼りない空想は、それでも胸を引き裂かれるような思いをメリルに齎した。
宿への道を歩きながら、自分の手を引いて歩くリィンの背中を見つめ、メリルは口を閉じる。リィンは時折、空を見ていた。
だんだんと酷くなってきた雨に自然と二人の足も速まり、石畳を雨粒が叩く音が酷くなる前に宿に戻ることができた。主人から渡されたタオルで軽く水気をはらいながら部屋へ向かう。
部屋の窓から見える景色は、雨も風も酷く。とても快晴とは言えない有様だ。メリルは自覚すらないまま小さく溜息をつく。雨に打たれた時間はそれほど長くはなかったとはいえ、リィンの体が冷えているかもしれない。紅茶を淹れようと、メリルは自身の荷物から茶葉を取り出す。と、その手をリィンが掴んだ。見上げた顔はどこか困ったような、そんな表情を浮かべている。
「先に髪を拭こう。風邪をひくから」
メリルの手からするりと缶をとってテーブルに置く。そのままメリルを椅子に座らせると、リィンはその背後に立った。リィンの指が髪飾りを外して、細い三つ編みを解いてく。メリルはゆっくりと瞬きをして、背後の存在に全てを委ねた。
やわらかい布を軽く押し当てられる。タオルに挟まれた灰色の髪はそれほど水分を含んではいなかったが、放置したならばリィンの言う通り風邪をひくかもしれない。明日、体調を崩して調査ができないとなればリィンの迷惑になるだろう。気が回らなかったとメリルは静かに目を伏せた。布一枚を隔てても、聴覚は雨粒が窓を叩く音をとらえる。
一方のリィンは、メリルが濡れた髪を放置したまま自分の為にお茶を淹れようとしていたことを理解していた。自分の事を考えてくれるのはとても喜ばしいことだったが、リィンとしてはメリルにはもう少し自分自身を大切にしてほしかった。メリルが風邪をひいたとなれば、当然リィンは心配するのだから。恋人の物憂げな顔を窓ガラスの中に見ながら、リィンはその理由を探していた。
そしてふと、それが今日という日と雨雲が運んだ憂鬱なのだと気が付く。
「もし、俺とメリルが一年に一度しか会えなくなったとして」
「はい」
「その大事な一日にこうして雨が降ったとしても」
「はい」
「ヴァリマールに乗って会いに行けると思うんだ。いや、ヴァリマールがいるなら一日といわずいつも会えるか?」
あの鋼の巨人ならばきっと、星の川を歩くことも、川の上を飛ぶこともできるだろう。それならば川など障害にはならない。一年に一度などという枷もなく、ふたり一緒に明日の約束ができるはずだ。いやそもそも、自分達は仕事をしないでいて引き裂かれる、ということにはならないと思うのだが。
大真面目に考えていたリィンは、そこでようやくメリルの肩が揺れていることに気が付いた。彼女の頭に被せていたタオルを退かせば、くすくすと笑う声がより鮮明に聞こえる。
「ヴァリマール様がいらっしゃると三人になってしまいますから、逢瀬にはならないのではないでしょうか?」
「……あ、それもそうだな。う〜ん、ヴァリマールには可哀相だけど、黙っててもらうか」
優しい、こと最近は人間味を増してきたあの巨人はきっと頼めば黙って無機物に徹するとは思うのだが、後々なにかしら言われそうな気もする。出会ったばかりの様子はどこへやら、揶揄いを投げかけてくることもあるのだから。
リィンは粗方の水分を拭われた灰色に指を通す。笑い終えたメリルが随分と穏やかな顔をしていたことにリィンは安心した。タオルを椅子の背もたれにかけてそっとメリルの肩に手をおく、軽く上体を振り返らせたメリルを覗き込むようにして、その双眸を見た。蒼と翠は瞬いている。一回、二回、星のように瞬いて。三回目に紫が溶けたとき、ゆっくりと帳をおろした。
数秒、雨音だけが響いた部屋に二人の息遣いが戻り。そっと体を離してから、二人とも視線を窓に向ける。思いのほか強く地を打つ催涙雨、それをみるメリルの瞳に、雨雲のように覆う憂いはない。窓の外から視線をはずし、目を合わせて微笑む。
「晴れるといいな」
「ええ、そうですわね」
二年生、七夕