Etre fleur bleue 前


 貴族連合の旗艦・パンタグリュエル。
 その中にリィンはいた。内戦中ユミルには一切手を出さないという条件を飲み、カイエン公に招かれて。
 速やかに内戦を終わらせ、あるべき秩序を、これまでの平穏を取り戻すのだと。そのためにリィンとヴァリマールの力が欲しいというカイエン。よく考えて答えを出せと、理事としての助言を投げたルーファス。なんでもないよくある話だと、自分の過去を聞かせてみせたクロウ。
 脱出できるかはわからない、しかし時間を無駄にするわけにはいかない。せめてなにか有益な情報のひとつでも掴めればと、案内された客室から出たリィンは絢爛なパンタグリュエルを歩く。案内された時も思ったが、戦艦の中とはまるで思えない。
 大きく開けた貴賓ホールが見えてくると微かに何かの音色が聞こえる、馴染みのあるこの音はピアノだろう。メロディには聞き覚えがあった、昔帝国で流行ったという曲、『星の在り処』。一体誰が? リィンはホールへと踏み出す。
 ホールでの歓談中に流すことが目的なのだろう。ピアノ自体は正面階段の脇、よく手入れされた植木に隠れるように配置されていた。グランドピアノの前に座るのは、灰色の髪をした少女。
 見慣れないその色、しかし慣れたその空気にリィンが思わず足を止めると、リィンに気が付いたのか旋律が止まる。

「やはり、拍手は頂けませんか?」
「……メリル」

 リィンを見たのは、蒼と翠。
 会おうと思っていた、会いたいと思っていた。もう一度会って話がしたいと思っていた相手が、そこにいる。巨大な鋼の向こうでもなく、触れることのできるすぐ近くに。ずっと探していた姿が、そこにある。リィンは何かを言おうとして、言葉を上手く紡ぐことができなかった。
 あまりにも言いたい事がたくさんありすぎたからだ。それは十月のトリスタでのことを責めるでも、貴族連合に与していることを責めるでもなく。ただ友人として、彼女に言いたい事がたくさんあった。胸が痞えて、体の動きまで止まってしまったようだった。

「リィンさん?」

 名前を呼ばれる。
 動きもしなければ声も出さない相手を不思議に思ったメリルが、椅子から立ち上がってリィンに近付く。そこに警戒というものはない。まるで学院にいた時のように、彼女は普通に近寄ってみせた。
 手に触れる。触れた手を引き寄せる。息を詰めた相手をリィンは抱き締めた。知らない髪の色、知っているにおい。知らない服装、知っている戸惑いの声。全部を頭で受け入れて、そうしてリィンは口を開く。

「やっと、会えた」
「……空の女神は、わたくしの祈りは聞いてくださらなかったようですね」

 苦笑いのような、そんな声でメリルが言う。女神が彼女の祈りを聞き届けなくてよかったとリィンは心の底から思った。
 話している、触れている、こんなにも近くに感じている。そこでリィンはハッとしてメリルを解放した、突然抱き締められたら困惑するだろう。しかし解放された本人は優しい目をしていた。一歩もリィンから離れることなく、そのまますぐ触れてしまえる位置にいる。

「お久しぶりです、リィンさん。お元気でしたか?」
「元気というか……うん、大きな怪我はないよ。俺も、みんなも」
「そうですか、良かったですわ」

 安心したようにメリルは微笑んだ。やはり変わらない。
 離れてからずっと考えていた。クロウやメリルがずっと嘘をついていたのかを。そんなことはなかった。二人とも立場や思惑こそありはしたが、自分達Z組へ向ける感情はきっと本当だった。
 学院生活もそれ以外も、二人は本当に楽しんでいた。自分達と同じように。

「リィンさん、無理はしていませんか? しっかり休めていますか?」
「大丈夫、大丈夫だ」

 華奢な指がリィンの頬に触れる。西部の前線で機甲兵を操っているとは思えない手だった。触れられた箇所がじわりと温もる。辛いわけでも、苦しいわけでもないのに、胸がぎゅうと締まる。
 メリルは相変わらず微笑んで、そこにいる。学院で一緒にすごしていた時に感じていたものの名前がわかりそうな気がして、わからない。

「君に、言いたいことがたくさんあったんだ。あったはずなのに。おかしいな。クロウには、色々言えていた気がしたんだけど」

 リィンは笑った。ひどく、不格好に。

「メリル」

 元気だったか? 違う。無理はしていないか? ……違う。

「君と、一緒にいたい」

 ぽろりとこぼれたのは、希うものだった。
 離れていたから近くにいたい。離れてしまったから近くにいたい。離れたくなくて、近くにいたい。
 多分、本来なら心配をするべきで。みんなに会いに行こうと言うべきで。彼女がどうしたいか聞くべきで。どうやったらこの艦を脱出できるのか聞くべきで。この艦の次の目的がなにかを聞くべきで――まるで弱音のような、泣き言のような、リィンひとりの願いを彼女に言うべきではなくて。それでも零れ落ちた言葉は、元には戻らない。

「リィンさん」

 名前を呼ばれる。優しく耳に触れて、溶けていく声。

「わたくしは選びました」

 メリルの手がリィンの両頬を包んだ。
 彼女は、夏の太陽を見上げる向日葵のような。人が満天の星を見上げるような。水中から水面を見上げて、焦がれるように。眩しいものやうつくしいものを見るような顔をしている。
 するりとメリルの腕がリィンの首に回る。先程とは逆、メリルがリィンを抱き締めた。予想外の行動に固まるリィンをよそに、メリルは恋人に甘えるようにすりと首元に頭をよせて。睦言を囁く様な声で、唇を動かす。

「無茶を言う自覚はあります、甲板に出てください」

 リィンはその言葉の意図を理解できないほど鈍くはなかった。であれば、この体勢になった意味も、彼女が声を潜めた意味も。
 迂闊にも、周囲に気を配るのを忘れていたようだった。メリルが体を離して、リィンが振り返ったそこにはいつかの特別実習で出会った貴族・ブルブラン男爵――ではなく、怪盗紳士・ブルブランの姿。二人分の視線をうけると、彼はわざとらしく肩を竦めた。
 呆れたような、メリルの声。

「ブルブラン様。覗き見とは紳士的ではありませんが、どういう言い訳をお考えで?」
「いやなに。美しい音色が聞こえなくなってしまったものだから様子を見に来ただけさ。逢瀬の邪魔をするつもりではなかったのだよ」
「ふふ、そういうことにしておきますわ。リィンさん。折角ですし、いろいろな方とお話してみては? こちらの怪盗紳士様ですとか」

 この場にこの人しかいないからしかたがない。そんな思いの見え隠れする言い方に、思わずリィンは笑う。メリルにしては珍しい、やや粗雑な扱いをうけた本人は、リィンと話をするのはやぶさかではない様子だ。

「ではリィンさん、ごゆっくりお過ごしくださいね」

 綺麗に一礼をして、メリルはホールを去っていく。どうやら、甲板へ急ぐ必要はないようだ。
 その場にブルブランとふたりで残されたリィンは、気まずそうに目を逸らす。
 己の選択のために情報がほしいとは思っていたが、目の前の人物から有益な話というものが飛び出してくるのだろうか? 少々、疑わしい。なにやら怪しげな組織の一員のようだが、とても胡散臭い。
 やけに楽しそうな様子のブルブランが、「君も罪な男だ」と芝居がかった動作で両手を広げた。

「綺麗なだけの人形を、人間にかえてしまうとは!」


 ***

 パンタグリュエルの客室の一つ。
 リィンが案内されていた部屋の隣にメリルはいた。そこがメリルにあてられた部屋だからだ。一ヶ月半ではたいして私物も増えず、備え付けの調度品や飾られた絵画、生けられた花、少しの本、部屋にはやや不釣り合いな導力端末。そういったものが部屋に存在している。
 さて、と部屋の鍵を閉めてメリルは導力端末の前に座った。元々は西部の戦線とメリルが直にやりとりをできるようにとルーファスの配慮で置かれたものだったのだが。まさか別の用途で使うことになるとは。
 部屋に戻る前にパンタグリュエルの航路、おおよその現在地、速度と高度は確認してきた。

(当たり前ではありますが。Z組のみなさんに情報を流すのなら、ワンクッション挟む必要がありますね)

 信用のできる相手。メリルが通信をしても違和感のない相手。確実に情報をしかるべき場所に伝えてくれる相手。
 学院の様子を聞くという名目でヴァンダイク学院長に連絡をしてみてもいいかもしれない。トリスタは貴族連合の支配下であるし、メリルは一応士官学院の生徒だ。一人だけだと情報が伝わりきらない可能性もある、ギルド方面に流すのも手だろう。質屋のミヒュトに言伝をと、学院に残った二年の貴族生徒に伝えるのも良いかもしれない。なんにせよ数人に連絡をする必要があった。
 パンタグリュエルは大型艦故に足が鈍い。速度の出る飛行船であれば追い付くことは容易だろう。そして、メリルはその船に当てがあった。情報が伝わったのならば迎えにくるであろう紅い翼――高速巡洋艦カレイジャス。

(リィンさんがカレイジャスと合流することさえできれば、問題はありません)

 カレイジャスがZ組の面々と合流しているかは賭けのようなものだが。あの紅い船が隠れて帝国各地を巡っていることは知っていた。パンタグリュエルがユミルを襲ったことは彼等の耳にも入る事だろう。ならば、きっと動くはず。
 情報を流したことがルーファスやカイエンの知るところとなっても、リィンが仲間達と合流することができればメリルはそれで良い。当てつけのように西部に詰めることにはなるかもしれないが、ふっと苦笑いしてメリルは端末に手を付けた。

「……っ!」

 まるでタイミングをはかったかのように通信がはいる。相手は、ルーファスだ。これからしようとしていた事もあり心臓が凍ったが、ひとつ深呼吸をしてメリルは通信に応じる。
 ルーファスを呼んだ声が少し震えていたような気がして、それを聞いて苦笑いしたルーファスに、あぁこれは何かしようとしているのはバレてしまっただろうなと、メリルは他人事のように思った。

『そう構えないでほしいものだ。少し言い忘れていたことがあってね』
「まぁ、珍しい」
『好きにするといい、メリル。カイエン公のお叱りは私が受けよう』

 優しい声をしている。優しい顔をしている。
 メリルは言われたことを頭で処理する。
 今まで掴まれていた、メリルが掴んでしまっていた手をそっと離され、最初の一歩を見守られている。全ての選択権をルーファスはいまメリルに委ねたのだ、好意的に。内心兄のように慕ったその人が、手を離しても良いのだと。
 胸が詰まった。じわりと目の奥からこみ上げるものを耐える、泣くには早かった。まだ、メリルはメリルの目的を果たしていない。かわりに微笑む。

「ありがとうございます、ルーファス様」
『ユーシスもだが。まったく、兄離れというのは案外寂しいものだな。……おや、カイエン公が呼んでいるようだ。お叱りを受けるまでは、歓談でもしていようかな』
「ふふ。ルーファス様、どうかお気をつけて」

 軽い返事の後に切れた通信。数秒そこを見つめてから、メリルは目的を果たすべく頭の中から連絡先を引き出す。
 リィンはいまごろ、客室の誰かの話を聞いているだろうか。カイエン公の雇った猟兵、協力者である身喰らう蛇の執行者、帝国解放戦線の幹部、ルーファスがどこからか連れてきた不思議な黒衣の少女。そして皇女アルフィン。彼らと話をしている間に、できることをしなくては。リィンが、帰るために。
 最後の通信を切って、ふっと息を吐き出す。念のためにと部屋に備え付けられた通信機で格納庫と連絡をとる、飛行艇も使用できる状態だ。ヴァリマールのいるリィンには無用かもしないが、何かあった時には飛行艇での脱出も考えるべきだろう。小型であれば、乗員がふたりでもぎりぎり動かせる。……蒼の騎神の追撃は当然あるだろうが。
 メリルは考えながら昇降機へ急ぐ。うっかりするとパンダグリュエルの内部で迷いかねないので、わかりやすい道を歩くしかない。
 貴族連合の人間であるメリルがひとりで歩いていようと領邦軍の兵士は咎めることはない。昇降機前を警備する兵に「甲板へ気分転換に」と告げると、快く通して貰えた。

「……寒い」

 甲板。冬の上空は、当然のように寒い。びゅうと吹きつける風は冷たくメリルの灰色の髪を煽っていく。
 幸いなことに、騎神の近くに人の姿はない。いたとして、メリルがヴァリマールの近くにいる事に疑問を抱く人間も少ないだろう。いままでもオルディーネの周りを散々うろついては眺めていたし、メリルの機甲兵好きはパンタグリュエルに常駐している兵なら知った話。今回もきっと、「灰の人形騎士に興味があるのだろう」で済まされる。
 メリルはぎゅっと、工具を握る。

「わたくしは、選びました」

 白い鯨の腹からリィンを逃がすと決めたのだ。大事な、人だから。
 ヴァリマールを拘束するのは頑丈そうなワイヤー。当然だろう、まだ味方にもなっていない巨大兵器を野放しにするはずがない。成人男性数人と機甲兵を用いて拘束されたその状態、最初から真正面から挑むつもりはなく。フック側を壊すなりワイヤーを切るつもりでいたが、どちらもなかなかに骨が折れそうだった。不思議と、できないとは思わなかった。
 メリルの吐いた息が白く溶けていった。

12/13、幕間 前



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