今夜君に、
ようやく戻ってきた。そう呟いたのは誰だったか。
近郊都市トリスタ。十月のあの日、出ていくしかなかった場所に、リィン達は立っていた。
街の貴族派の兵士は去り。士官学院の留守を預かっていた貴族生徒とZ組の勝負も決着がつき。士官学院の生徒達も、誇りと矜持の置き場をようやくひとつにできたように思えた。Z組の短くも長い放浪は、ようやく一旦の区切りをみせる。
カレイジャスへ乗る生徒も増えることとなり、伝達や引継ぎ、その他の雑務が終わったのは、もう夕日も沈んだ星が見える頃。冬の夜特有の透き通るような冷たさにメリルは震えた。元々寒さには弱いのだが、それにしても一段と冷えたように思えて、あぁ今夜は雪でも降るのかもしれないと白い息が溶けるのを眺める。
第三寮へ向かう足取りは、軽い。
「リィンさん、お待たせしました」
冷えたドアノブを握、鍵のかかっていない扉を開けば、そこには随分と懐かしく感じる出て行った時と変わらない第三寮の姿。そしてそこに立つ、出て行った時より大事になってしまった人の背中。ゆっくりと振り返る。
「俺もいま来たんだ。それにしても、随分と綺麗だな」
「ええ。学院に残っていた方々が定期的に掃除をしてくださっていたそうです」
メリルはある程度心や身辺の整理をしてから寮を出て行ったが、リィン達は突然ここを離れることになった。寮が綺麗であることに対する気持ちも、寮に無事に帰ってきたことへの思いも、メリルとは違うだろう。感慨深くロビーを見るリィンをメリルは見守った。
階段を上がった先、男子生徒達の暮らしていた二階。ふと、三階へ続く階段を見てリィンが苦笑いを浮かべる。
「メリルが出ていく前の日。ここで別れた時は、本当に次の日に会えると思っていたんだよな。違和感はあったのに」
「……その、申し訳ありません」
「っと、ごめん。メリルを責めているわけじゃない。ただ、あの時に引き留めていれば何か変わったのかなって……もう過ぎたことで、メリルもここにいるわけだし。あまり考えるべきじゃないんだけどな」
階段から目を逸らして、二階を見回るために足を進めるリィンの後をメリルはついて歩く。
あの日、もしリィンに引き留められていたとして何か変わっていただろうかとメリルは考えた。クロウの乗るオルディーネと向かい合うZ組のなかに自分の姿があるところは想像できず、やはり結末は変わらなかったのだろうなと思う。ただ、離れてから得たものや気が付いたことは多く。いまとなっては、後悔というものはあまりなかった。
あ、と小さく声をあげたリィンの目線の先にはクロウの使っていた部屋。数秒躊躇ってから、扉を開けて入っていくリィンにメリルも続いた。
陽気な声が聞こえてくるはずもなく。中は驚くほどに殺風景で、クロウが本当にこの部屋にいたのかと疑問すら感じる。まだメリルの部屋には私物があったぶん生活感もあったが、クロウの部屋は違った。もうここに戻ってくる気などないというようなそこを見渡したリィンが、小さく溜息を吐いた。
そっと扉を閉めて、二人並んで廊下の窓を見る。外の家々にも、奥に見える士官学院にも灯りがともっていた。今夜はきっと、それが消えることはないのだろう。
懐かしい眺めを、暫し無言で噛みしめる。
「トワ会長達に『クロウを卒業させる』なんて言ったけど。あの部屋を見ると、連れ戻せるのか少し不安になるな」
「わたくしと違って、クロウさんにはクロウさんの遂げるべきことがあって貴族連合にいるのでしょうし。なかなか穏便に帰ってくることは難しいのかもしれませんね」
「そもそも、あいつは卒業のための単位が足りるのか?」
「どうでしょう、来年度も同級生かもしれませんわね。わたくしやリィンさんが二年生で、クロウさんも二年生で……それはそれで、楽しそうですけれど」
軽口を言って二人して笑う。そうすると、不思議と不安は薄れた。
屋内とはいえ冬の窓辺。足から這い上がった冷たさにメリルが身を震わせると、リィンは紅い上着を脱いでメリルの肩にかけた。最初は遠慮していたメリルも、リィンが笑って一言二言重ねれば大人しく上着を受け入れた。
ぬくもりが残っていて、リィンの匂いがするなとメリルの頭が認識すると。突然いま二人きりでいることに心臓が煩くなる。
顔をあげて、リィンの横顔を見た。
「ありがとうございます、リィンさん」
それは上着の礼もあったが、もっと別の事への感謝だった。明日がどうなるかわからない以上、伝えるべきは未だとメリルは判断した。
「パンタグリュエルでリィンさんがわたくしの手を取ってくださったから、わたくしはこうしてここにいることができる」
そっと、メリルはリィンの手を取った。温かな手は学院にいた時よりも傷が増えている。内戦に巻き込まれて、ひとりになって、散り散りになった皆を集めて、ここまでもがいて進んで来た、手。
メリルが自分で選んで進んだ道。パンタグリュエルを離れて、トリスタに戻り、いまリィンの横に立っていること。日数にすればとても短い、メリルにとっては長かったその道を決定づけた、手。いつのまにか、メリルにとっては愛おしくて、離し難いものになってしまったぬくもり。
「わたくしにはまだ、Z組のみなさんのように自分の意思で自分の道を進むことは、きっと難しいと思いますわ。でも、」
メリルにとって、ルーファスは生きるための標だった。
手を伸ばされたのか、手を掴んでしまったのかはもうわからない随分と昔から。救われ、導かれてメリルは生きてきた。だから、彼に少しでも恩を返すことができるのなら、誰のいうことでもそれがルーファスの利になるのなら。自分のからっぽな人生に少しでも価値ができるのだろうと、そう思っていた。
自分で選ばずとも、与えられる道を淡々と歩んで。回る世界を他人事のように眺めて、それでいいと思っていた。
しかしパンタグリュエルでメリルは自らその標を手放した、自身で選んで進んでいくために。世界に置いて行かれないように。メリルにそうさせたのはリィンだ。いや、リィンをはじめとしたZ組の生徒達。与えられた場所で得た、あたたかな居場所。凍った文字盤を溶かしていくようなぬくもりに、少しずつメリルの気持ちが動き始め。やがて正常に進み始めた針が、メリルの奥で息づいていた。
一緒にいたい。皆と一緒にいたい。リィンと、一緒にいたい。標を失った世界の先が見えなくとも。
「でも、リィンさんと一緒なら、大丈夫だと思うのです。不安でも、怖くても、きっと」
自分を見下ろす紫の瞳に微笑んで、メリルは名残惜し気にリィンの手を離した――が、今度はリィンがメリルの手を取った。大きさの違う手が重なって、互いの体温が直に伝わる。リィンからの視線は柔らかなものに感じた。
「一緒にいるって、前に言っただろう。ただ」
リィンが言っているのは、カレイジャスの甲板でメリルがみっともなく取り乱した時のことだろう。いま思い出しても顔から火がでてしまいそうで、メリルは思わず俯く。
しかし、先に続く言葉は何だろうか。やはり迷惑だったのだろうか。そんな事を、廊下の木目を見ながらメリルが考えていると、リィンの手が離れ、次いでぐっと体を抱き込まれた。
瞬きの後、静まっていた心臓が再び暴れ出す。
「友達とか仲間だから一緒にいる、じゃなくて。メリルの事が好きだから、俺も一緒にいたいと、そう思ってる。この内戦の先に何があるかなんてわからないけれど。メリルが一緒なら、俺はきっと道を選んで行けるから。……だから、隣にはメリルがいて欲しい」
ぽつりぽつりと、雨のように降るリィンの言葉が、耳からするりと頭と胸にはいりこむ。メリルが顔を上げようとすると、表情を見られたくないというようにぎゅうと腕に力が籠もる。メリルが普段聞いているよりも、焦ったような、少し落ち着きのない声で制止された。
「見ないでくれ、酷い顔なんだ」
「リィン、さん」
同じ、なのだろう。
リィンの手のぬくもりを離し難いものにしていた、彼を恋しく思う気持ちと。リィンがメリルに告げた『好き』という言葉に籠められた気持ちは。共にいたいと希う、隣にいてほしいと希う、強い気持ちの核は。
恋、で。
メリルはそろそろとリィンの背中に手を回して、頭をその胸に摺り寄せる。強いリィンの鼓動の音が聞こえて、それをもっと鮮明なものにするためにメリルはゆるりと目を閉じた。気を緩めたら涙が零れてしまいそうになる熱い瞳に、そっと瞼で蓋をする。
「どうか、隣にいてください。未熟で弱いわたくしは、きっと甘えてしまうけれど。それでも、わたくしもリィンさんの力になりたい、貴方を支えたいのです」
冬の静けさをそっくりそのまま招き入れたような、静寂に包まれた廊下。
己の鼓動とリィンの鼓動が耳の中でひとつになって、メリルは微笑む。このままひとつになってしまいたいと思いながら、縋りつくようにリィンを抱き締める力を強くした。
「リィンさんの隣を歩んでゆける《自分》になります。だから、どうか、わたくしを離さないで。……好きです、リィンさん」
応えるように籠められた力が弱まり、幸福な拘束が緩む。
紫と蒼と翠が合わさって、どちらからともなく顔を寄せる。お互いの瞳に、お互いのことしか映っていないとわかる距離で、目を閉じた。今度こそ押し出されるようにして零れた涙がメリルの頬を伝って落ちる。その瞬間、唇から伝わった温度が世界のすべてなのだと錯覚してしまうほど満たされ。そしてその幸福感に僅かな恐れを抱いて、メリルはリィンの服をそっと掴んだ。
「メリル」
唇を離して数秒。呼ばれた名前に顔を上げる、もう砂糖が溶け切らない紅茶のようなひどく優しい声だった。リィンの手が頬の上をすべると、メリルはそれを受け入れるように目を閉じる。与えられる、短針が進み切らないほどの触れるだけのキス。
体を離して再び向かい合う。ずり落ちそうになったリィンの上着をしっかりと握る。
「一緒にいよう」
「はい、リィンさん」
メリルは心の底から笑うことができた。それが美しいものであったかはわからないが、リィンの瞳に映っていた自分は、どの鏡で見た時よりも人間らしかったように思えた。
ふたり、離れないでいるのならきっと。様々な感情を共有して、自分の意思のまま自分の進む道を定めていけるのだろう。冬の寒さのように地から冷えるような不安も、吹雪のように理不尽に暴力的に降り注ぐ恐怖も、温めあって乗り越えることができるのだと。メリルはそう思うことができた。
繋がった想いに胸を占められながらも、どこか片隅にある不安を覆うかのように、窓の外では雪が降り始めていた。
12/30、トリスタ解放