不安を覆う幸福


 クロスベルでの要請を終えたリィンとメリルがトリスタに帰ってきて数日がたった。
 特別にカリキュラムを組み立て直し、一年で士官学院を卒業することにしたZ組の生徒達。そのまま二年に進級するリィンとメリルも皆と同じ授業や試験を受け、再び穏やかな学院生活をすごしていた。
 一年早い卒業。それぞれの道を歩むと決めた以上それは仕方のないことで、皆が自分の道を決めたことは歓迎すべきなのだとわかっていても、早まった別離に寂しさを感じていた。
 放課後。珍しくまっすぐ第三寮に帰ったリィンは、メリルの自室にいた。
 突然の訪問にもかかわらずにこやかに迎え入れたメリルが勧めるまま、椅子に座る。以前は勉強机に備えられた椅子しかなかったのだが、内戦が終わってからいつの間にか新しく椅子を購入したらしく、いまメリルの部屋には二脚の椅子があった。頻繁に部屋に訪れる自分の為に用意されたものであると分かるそれが、リィンは嬉しかった。
 しかし、椅子が増えても殺風景であることに変わりはない部屋をリィンは改めてゆっくりと見回す。

「どうかしましたか?」
「いや……、あまり物がない部屋だなと思って。と、悪い。あんまりジロジロ見るものじゃないよな」
「特に気にしませんので、大丈夫ですわ」

 くすくすと笑ったメリルは本当に気にしていないようで、リィンと一緒になって自身の部屋を見回している。
 昨年の十月に一度整理されていることもあり、物が少ないのは本当の事だった。いまの二〇六号室ではないにしろ、他のZ組の生徒に比べて持ち物も少ない。
 備え付けられた家具に学院で使う道具、一般的な日用品、壁に掛けられた大鎌と少しの工具。メリル本人から受けるイメージとは少々離れているように思えた。女の子らしい、というと偏見だが、綺麗だとか可愛いものはあまり置かれていない。実用性重視といった様子だ。
 ベッドの上に置いてあるみっしぃのぬいぐるみが少し異質に感じる程度には。

「あれは、処分しなかったんだな」
「捨てられなかったのです」

 椅子から立ち上がったメリルがベッドの上のみっしぃを抱き上げた。
 学院祭の日、リィンに渡された時にしたように、そっと頬を寄せる。愛おしむようなそれにリィンはどきりとしたが、すぐに二色の瞳が自分を見たので、悟られないように努める。
 みっしぃを抱えたまま、メリルは再び椅子に腰を下ろした。

「多分、リィンさんから頂いた物だったから、処分できなかったのだと思います。……大切で」

 リィンへの好意のはじまりがどこだったのか、メリルは覚えていない。しかし、学院祭のあの日にリィンに渡されたぬいぐるみは、寮の部屋にあるなによりも特別に感じていた。確実に、そして無自覚に、あの頃にはリィンのことが好きだったのだろうなと、灰色の布地を撫でながらメリルは思った。
 己の変化には気付いていても、その隣にあった恋心には気付きもしなかった。変化があったから、恋があって、それがさらに己を変えたのかもしれない。
 そして、ふと。リィンはどうだったのだろうかという疑問が浮かぶ。
 リィン・シュバルツァーという人物は、少し女性との距離感がずれている人だとメリルは思っていた。物理的に距離が近いことは、きっと妹にもそうしていたからだろうなと思っていたし。ぽんぽんと出てくる言葉の数々も、そういう人なのだろうなと受け止めていた。
 内戦の前を思い出してみても、いまと大きく違う部分は無いように思う。メリルが気付いていないだけかもしれないが。

「リィンさんは、いつからわたくしのことを好いていたのですか?」

 メリルのあまりにも直球な質問に、吸った息がおかしな場所に入ったリィンは噎せる。先程散々見回した部屋のあちこちに忙しなく視線を向け、暫し考えてから再び口を開いた。

「正直、自覚したのはメリルがパンタグリュエルから戻ってきたあとだった。から、いつからかっていうのは俺もよくわかってないんだよな」

 マキアスに言われて自覚したその感情をいつから抱いていたのか、リィン本人にもわからない。
 どこかちぐはぐな彼女から目が離せなくて、少しずつ壁が薄れていくことを嬉しく思って。「リィンさん」と初めて呼ばれた時の胸の高鳴りを今でも覚えていることを考えると、あの時には好意を抱いていたのか……とも思うが。

「もしかしたら、わたくしが先に好きになっていたのかもしれませんわね」
「いや、気が付かなかっただけで俺が先かもしれないぞ」

 張り合うようなリィンの言葉にぱちぱちと目を瞬かせたあと、唇に手を当ててメリルが笑う。それにつられるようにしてリィンも笑い始めた。
 ふたりぶんの笑い声で満たされていく部屋の外から、誰かの声が聞こえる。誰かの生活する気配を感じる。もう少し経てば、リィンとメリルもこの第三寮を引き払って第一寮に移ることになるだろう。その短い間だけでも、皆との思い出の残る場所でふたり、寂しさを紛らわせていたい。そんな思いがお互いの胸にあった。
 この先にある別離や、慣れ親しんだ場所を離れること、どうなるかわからない自分達の道への不安が頭の隅で根を張っていても。今この瞬間はとても穏やかで、幸せだった。

3月、私室



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