水練
七月の中旬。公園の木々が青々と輝く、初夏を迎えたトリスタでは士官学院の生徒達の服装も夏服に切り替わっていた。
それと時を同じくして、士官学院ではギムナジウムのプールを利用しての水練がはじまる。
士官学院である以上、行われるのは軍事水練であり。その内容はまず自身が溺れないこと、そして溺れた人間の救助、蘇生法。そういったものを学ぶ。もちろん、純粋に体力づくりとしてであったり、タイムを計ることもあるが。
水が跳ねる音をどこか遠くに聞きながら、メリルは己の爪先を見ていた。水練の時間というものは、メリルにとっては苦痛以外のなにものでもない。
過去の事故により水辺を酷く恐ろしく思うメリルは、その様子や事情を把握している学院側からレポートの提出や授業の補佐をすることで、プールに入ることを免除されていた。ありがたいことではあったが、制服を着てただプールサイドにいるだけでも体が竦む、逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
Z組の生徒達が泳ぐ傍らでタイム測定やスタートの合図を手伝う、必要であれば道具を運ぶ。普段ならなんでもない作業が、すぐ近くに水があるというだけで気分が悪い。
その青ざめた顔を見ては、アリサやエマをはじめとしたクラスメイト達に医務室に行くことを勧められる。それが、七月に水練が始まってから見られる光景だった。
「メリル、大丈夫か?」
「ラウラ様……。ええ、大丈夫ですわ。サラ教官のお手伝いにも慣れましたし。なにもしないで見学しているよりは、ずっと気も紛れます」
自身がプールからあがったばかりで水が落ちる事を気にしてか、ラウラはいつもより離れた位置からメリルに声をかけてきた。自分を心配するラウラにメリルは微笑んでみせる。
ラウラに言ったことに、嘘はない。自分の今の状態で嘘をつき通せるとはメリルは思っていなかったし、ラウラに嘘をつく必要はなかった。ラウラはメリルが水辺を嫌うことを知っているからだ。
メリルがレグラムにあるアルゼイド子爵の屋敷に世話になったのはもう何年も前で、その時はメリルもラウラも小さな子供であった。エベル湖に沿って立ち並ぶレグラムの街並みは、時折かかる霧や遠くに見えるローエングリン城もあり神秘的ではあったが。幼いメリルにとっては今以上に恐ろしい場所だった。
記憶の中の幼いラウラも、いまのラウラと同じように、青い顔をしているメリルの心配をしていたことを思いだす。
「そうか、ならば良いのだが。あまり無理はするな、いつも酷い顔をしている」
「そんなに、でしょうか」
「うん。付き合いの短い人間でも心配するような顔色だ、そなたが自分で思うより酷いと思うぞ」
ともかく無理だけはしないように、と念を押して水の中に戻るために背を向けたラウラを見送る。蒼い髪からはなれた雫が、素足の爪先にひたりと落ちた。
メリルはそのまま、プールを見る。
ラウラはまるで魚か、おどぎ話の人魚のように、何の苦も無く水の中を進んでいく。自分より小柄なフィーも水圧など感じさせないほどスイスイと泳いでいる。アリサもエマも、男性たちも。遅い速いはあれど、誰ひとり水に怯えてなどいない。当たり前かもしれない、水が怖い人間など。きっと少数派だ。
……だからかもしれない。見ていると、どうにもメリルは自分が情けなく感じる。元より情けない人間の部類にはいるので、その認識は決して間違いではないのだが。また俯いて、爪先を見る。茶色の髪が視界の端で揺れた。
ぽたり。不意に、視界をかすめてノートを濡らした雫にメリルは顔を上げる。
「こーら、しっかりレポート書いてる? ペンが止まってるわよ」
「サラ教官。その、ノートが濡れてしまいますわ」
「あぁ、ごめんごめん。それよりアンタ、すごい顔してたから、あっちでユーシスが分かりづらく心配してたわよ」
「……申し訳ありません」
あたしに謝っても仕方ないでしょうというサラの言葉に、メリルは黙る。正論だ。
よっぽど自分は情けない顔をしていたのだ。水鏡を見て確かめようにも、まずその水に近付けない、己の姿を確認する事が難しい。情けないのか、悔しいのか、恥ずかしいのか、その全部か。そもそも水鏡が見られたとして、いまの自分の姿は――……。
まるで水の中にでもいるように苦しくなって、メリルは俯いた。
「情けないと思う必要も恥じる必要もないでしょ。いまはしっかりレポート書いときなさい」
適当でだらしがないように見えて、この教官はしっかり見抜いているのだ。
ウインクをして悪戯っぽく笑うサラが初夏の太陽のように眩しく感じて、メリルは目頭がじんと熱くなったのを誤魔化すように目を細めて笑った。
::7月 水が嫌い