心に入り込む
七月の特別実習・帝都ヘイムダルでの依頼や事件を乗り越えたZ組の生徒達は、うだるような暑さの中、また普段の学院生活に戻っていた。
年末年始以外に長期休暇の無い士官学院だが、この時期は例外的に貴族生徒の帰省が認められている。平民生徒も五日間ほどの短い夏季休暇があったが、メリルを除いたZ組全員はトリスタで過ごしていた。
不在だったメリルがバリアハートから帰ってきたのが六日前。Z組に二人の編入生――ミリアムとクロウがやってきたのが四日前。そして今日、照り付ける太陽を痛いほど感じる、自由行動日。
生徒会の手伝いをする前に軽く稽古をと思ったのが間違いだったのか。汗だくの体をシャワーで軽く流して再びロビーに下りたリィンはポストを確認する。
毎回の事だが綺麗にまとめられた生徒会からの依頼に目を通し、食堂近くに置かれているソファでぼんやりとしているメリルに声をかけた。随分長くそこにいたのだろう、目の前に置かれたグラスの中の氷は小さい。
「メリル」
ユーシスとラウラ、リィンは結局故郷には帰らなかったが、メリルは家から連絡があったのか他の貴族生徒と同じように故郷であるバリアハートに帰っていた。期間は十日間ほどだったが、メリルのいない教室や第三寮は少しだけ静かに感じた。
「随分とぼーっとしてるな、大丈夫か?」
「ええ、大丈夫ですわ。第三寮に戻ってきて皆様の顔をみたら、なんだか急に気が抜けてしまって。……少々、疲れていたようです」
安心した、ということでよいのだろう。
五月のバリアハートでの実習での貴族地区の住民の反応やユーシスやラウラの様子をみるに、メリルはどうやら実家との関係があまり良くないようだった。少々意外である。だからZ組の生徒達は、今回の帰省を心配していたのだ。実家から連絡があって帰省したとなれば、特に。
メリルの疲れの原因が実家であることは間違いないと思うが。その話を聞いていいものか、リィンは考えあぐねていた。
そのリィンが次の言葉を頭から引き出すよりはやく、メリルが口を開く。聞かせるというよりは、こぼれ出たという表現が合うような、囁くような声。
「わたくしの乳母をしていた方に久しぶりにお会いしたので、長々と話してしまいまして。少し騒ぎにもなっていましたし、実習の事も知っていたのか皆様の事をとても気にされて、色々と聞かれましたわ。そう、それで……」
「それで?」
先を促すリィンの声。
「『良いお友達に恵まれたようで安心しました』と、言われましたわ」
少し、戸惑うようなメリルの声。
己の指先を見ているために少し俯いているその表情は、どこか嬉しそうな、困ったような。いつもの穏やかな微笑みとは違う、年相応の顔に見えた。
「言われてみれば、いままでお友達と言うとひとりしか頭に思い浮かばなかったのですけれど。皆様のことが思い出せるようになって。そう、嬉しかったのだと思いますわ」
もしかして、今まで友人とは思われていなかったのだろうか? ふと、疑問がリィンの頭をよぎったが。いまは素直に友人と認められたことを喜ぶべきだとそっと疑問に蓋をする。メリルの人間関係に関しては、リィンも少々ひっかかりを覚えていた。
彼女は、友人の話をしない。彼女は、家族の話をしない。彼女は、生まれ故郷の話をしない。
使用人のように人に尽くすことも。分け隔てなく与えられる優しさも。いつも穏やかに浮かべられる微笑みも。……もちろん悪いものではない。安心できるもので、なにより平等に接するということは基本的には善行だ。
ただ、リィンはそこに言いようのない《壁》を感じてしまう。感じてしまうようになっていた。
もしメリル本人が意識して作っているものならば、そこには理由があるはずで。そして、たったいま友人と認められたリィンには、その理由に踏み込む勇気はなかった。
しかし、きっかけを作るくらいはと声を上げる。
「じゃあ、嬉しいついでに様付けはやめてみないか?」
「まぁ」
「嫌とかじゃないんだ。でも、いつも話してくれる友達のことは呼び捨てだろう? なら俺達の事も呼び捨て……とまではいかなくても、もう少し砕けてくれれば、俺は嬉しいかな」
ひとりしか思い浮かばなかったというメリルの友達のことは幾度となく聞いている。
メリルが頻繁に出している手紙の相手はリベール出身の少女で、自分達と同じくらいの年齢であることも。エステルという名の少女は、様もさんも付けられることなく、そのままの名前を紡がれていた。なにより、その人物の話をするときのメリルの表情が、違う。
夏の太陽を見上げる向日葵のような。人が満天の星を見上げるような。水中から水面を見上げて、焦がれるように。眩しいものやうつくしいものを見るような顔を、している。
「リィン様」
いつものように、呼ばれる。
顔も知らない相手に妙な対抗心かもしれない。
ただ、いま一緒にいるのは自分達だ。寮や学院で共に生活をし、特別実習では共に課題を乗り越えた、だから、ったく親しくないというわけでもなく。そもそもいま友人と言われたのだから。……色々と並べ立ててみても、結局は羨ましいだけなのだ。
しかし、メリルの性格からして突然呼び捨てに切り替えることはできないだろう。そこは理解している。せめてさん付けあたりに落ち着いてくれればと、リィンは思った。
「リィン、様」
数回目を瞬かせ、今度はリィンの名前を唇だけでなぞってからメリルが顔を上げた。色の異なる双眸には、リィンの顔がうつっている。
「リィンさん」
「……はは。いや、自分で言いだしておいてなんだが。そうして呼ばれると、結構嬉しいな」
リィンさん。
耳に新鮮で、嬉しくて、どこかくすぐったい。奇妙な感覚だった。
自分でこうなのだから、度々「もっと砕けてくれてもいいのに」とぼやいていたアリサやクロウ。いや、他のZ組みんなも喜ぶだろう。……ユーシスとラウラはすごした時間が皆より長いぶん、様付けが抜けるか怪しいところではあるが。
「改めてよろしくな、メリル」
「はい、リィンさん」
リィンは数回、呼ばれた名前を頭の中で繰り返す。これを最初に聞いたのは自分なのだ。そう思うと、古傷の下、心臓が低く控えめに存在を主張する。
やはり、奇妙な感覚だった。
::8月 自由行動日、呼び方が変わる