聴覚
不安げな瞳が自分を見た。それも当然だろう、一時的とはいえ五感のうちのひとつが機能していないのだから。音で予測や把握ができないかわりに視覚に頼っているようで、リィンの一挙手一投足をメリルは見逃さないように追い、反応している。それでもどうしても自分が視界に入らない時、その背にいつものように投げ抱えた名前で振り向かない彼女に、どうにも寂しい気持ちが湧き出た。
「メリル」
聞こえないのをいいことに、何度も名前を呼ぶ。
振り向かない、しかたがない。呼んだ数が両手で数え切れなくなった、それでもまだ名前を繰り返す。餌を強請る仔猫のようだと己に苦笑いしながら、口によく馴染んだ音を繰り返す。何かの間違いで彼女が振り返らないだろうか。振り返ればいいなとも思うし、振り返らないでいればずっとこの名前を呼んでいられるなと思う。
「メリル」
灰色が揺れた。
***
いつもと変わらない落ち着いた瞳。
五感のひとつが機能していないというのに、さして慌てているようにも不便なようにも見えないリィンは、いまは本棚に向き合って次に読む本を選んでいた。いつもと同じ調子でその背の名前を呼んでからはっとする、相手には聞こえていないのだ。
ソファの上、指先で口を抑える。
「……リィンさん」
聞こえていないのなら、何度口にしても良いのではないだろうか。
口に馴染んだ愛おしい名前をその背に繰り返す。偶に彼が望むように名だけを呼んでみようとして、できなくて。失敗が両手で足りなくなった頃、リィンの肩が小刻みに揺れた。
「何度も呼ばれるとくすぐったいな」
細められた瞳が振り返ったので、メリルは声にならない声をあげる。どうしてと顔に書いてあったのだろう、「どうしてだろうな」と愉快そうに笑ったリィンがメリルの隣に座り、言い訳じみた言葉を連ねるメリルの声は聞こえませんという顔をして手を絡めた。
促すように覗き込む紫色に頬を熱くして、メリルはまたその名前を唇にのせた。