月夜


 
 昼間の濃霧が嘘のように、開けた視界には一面に広がるエベル湖。そして対岸には月を背に佇むローエングリン城が見えた。
 ここはレグラム。Z組の一員であるラウラ・アルゼイドの故郷にして、今月の特別実習が行われる、霧と伝説の街。
 レグラムでの実習一日目は無事に終わった。街灯の交換作業からはじまり、メリルも数回見たことのある機械仕掛けの不思議な魔獣……人形兵器の討伐、アルゼイド門下生との手合せ。父子の再会。
 そしてリィンとアルゼイド子爵の手合せ。
 これまで何度かそうしたものがあるとは思っていたが、リィンの抱えていた≪力≫――彼が恐れていた力、それをあるがまま受け入れて進んでいこうとする姿。それはメリルの目には眩しく思えた。
 いつも眩しく思ってはいるのだが、今日は一段と。トヴァルや子爵にかけられた言葉も、それを加速させているのだろう。

「月が、綺麗」

 夜闇のなか、ひとり首をふる。いまはやるべきことをしなければと取り出したARCUSで、かけ慣れた番号を打ち込む。
 普段使っている学院配布のARCUSではないそれは、今まさに連絡をとろうとしている相手から持たされたものだ。これを使うとなると用件は限られてくる。

(起きていらっしゃるかしら)

 多くの人間は寝ているはずの時間。それはメリルが行動を共にしているZ組の生徒もおなじこと。いまは皆アルゼイドの屋敷で寝ているはずだ。
 目を閉じて数回のコール。止んだコールのむこう、いつものように穏やかな声がメリルの名前を呼んだ。その声で名前をなぞられる、そのことに少しだけ心が落ち着く。
 このような時間だ、レグラムに子爵が戻ってきていることを手短に伝えると、それに対しての了解の意のほかにメリルへの労りの言葉がかけられた。普段通りにしていたつもりでも、落ち着かぬ心を見抜かれていたようだ。幼い時分から知られているとはいえ、敵わないなとメリルは思う。
 労りをありがたく受け取って微笑む。メリルが笑ったことがわかったのか、通信の向こうの人物の声にも柔らかいものが混ざった。

「……はい、おやすみなさいませ」

 ARCUSの通信がきれ、そうしてまた夜の中ひとりになる。
 そう思っていたメリルの耳が、石の階段をおりてくる音を捉えた。そっとARCUSをしまって振り向けば、そこにはもうすっかり寝ていたとばかり思っていたリィンの姿。
 気配に敏い彼のことだ、階段の下にいたメリルにはとっくに気が付いていただろう。疑問形でメリルの名前を呼んでおりてくる。

「お休みにならないのですか、リィンさん。今日はお疲れでしょう」
「それはメリルもだろ。霧、晴れたんだな。星が綺麗だ」

 湖を見ないのは気遣いだろうか。メリルもリィンと同じように星を見上げた。
 先のブリオニア島も実習でも星が綺麗だったことを思い出す、それと同時に海に囲まれていたことも思い出して少し顔をしかめる。いまにも波の音が聞こえそうだ。
 リィン達A班の行ったノルド高原では、その雄大な自然が素晴らしかったようで。アリサ達がそのことを話していたのをメリルはよく覚えている。
 星から視線を下げて自分をみたリィンが、一拍置いて何か言い淀む。思わず、メリルは少し身構えた。

「メリルが、誰かを真似ているっていうのは……。ごめん、トヴァルさんとの話が聞こえてしまって」
「いえ、あのような場所で話せば当然かと。……いつもリィンさんにお話しているお友達のことですわ。真直ぐで、前向きで、一生懸命で。そこにいるだけで周りを明るくしてくれる、太陽みたいな人」

 エステル、大好きなひと。
 直接一緒にいた時間は少ない、小さな事件に巻き込まれたメリルを数日間護衛してくれた。
 短い時間でもエステルのその明るさはよくわかったし。いまでも目を閉じればキラキラとした眩しい笑顔を思い出せる。手が届かないほど遠い太陽は眩しいけれど、憧れだった。メリル自身が不思議に思うほど。
 トヴァルはエステルと会ったことがあるのだろう。帝国を訪れたエステル達が現役で活動をしている遊撃士にコンタクトをとるのは当然といえる、遊撃士の行動が制限されている帝国なら、なおさら。だから、メリルが遊撃士の話をしたときにそれがエステルのことだとわかったのだろうし。メリルのいまの姿にも合点がいったのだろう。
 わかったから言ったのだ、「あいつにはなれない」と。

「トヴァル様の言う通り。真似たからといってわたくしが彼女になれるわけではありません。彼女のように振る舞うことができるわけでもなく。ただ、少し似た容姿の人間ができるだけで」

 重々承知だ。この行為は他人も、自分も欺く。与えられた容姿を偽り、その偽りで自分が変われるのかもしれないという淡い幻想を抱くだけの欺瞞にすぎない。
 昔からメリルを知る人間や、エステルを知る人間からしたら滑稽だろう。そういえば、先程まで話していたあの人はどう思っているのだろうか。秘かに幻滅されているかもしれない、頭の片隅でそう思った。

「なにに、なろうとしているのでしょうか」
「メリルは、もうなっているじゃないか」

 半ば独り言だったメリルの話を黙って聞いていたリィンからの突然の言葉に、メリルは月光で輝く湖面からリィンに振り返った。
 実習や手合せの疲れなど感じさせない真直ぐな目がメリルを貫く。少し、たじろいだ。怖かったのかもしれない。自分というものが変質してしまいそうになるZ組という場で、重心として機能する彼がなにを言うかわからないから。

「トールズ士官学院Z組の、俺達のクラスメイトで友達の、メリルに」
「それは……」

 そうだろうか。そう、なのだろうか。そうあっても、よいのだろうか。
 メリルはリィンのその言葉に、素直に頷いてかえせなかった。
 士官学院に入学したのは人の薦め、数滴ばかり思惑を含んだもの。なにより、リィンがこうしてメリルの横に並ぶほんの少し前には、クラスメイトには言うつもりのないことをしていた。先の休暇、全部が全部実家にいたわけではなかった。鋼鉄の箱のなか、静かに息をしていた。
 言わないことも、言えないこともある。嘘ばかりではないが、嘘がないわけでもない。後ろめたい、その一言に尽きた。
 結局どう返事をすればいいかわからず、メリルはいつものように微笑んでみせる。上手く笑えていたかはわからないが。

「八月とはいえレグラムの夜は冷えます。もう、戻りましょう」

 リィンにとっては、明確な言葉のない拒絶だった。あるいは、いつもどこかで感じている壁が確かなものになっただけか。
 ただ、いまは彼女の『いつも通り』に戻ろうとする姿勢を尊重したかった。……下手に踏み込んで、きっぱりと拒絶されることが怖かっただけかもしれない。メリルの提案に素直に頷いて、「おやすみ」というとリィンはメリルに背を向ける。
 その背中を見送ったメリルは、不思議と痛む胸に手をおいた。それが良い返事をできなかったからなのか、己の触れられたくない部分に触れられたからなのかは判断がつかなかったが。どこか自分の目に見えるところに手をおいておかなければ、遠くなっていく背中につい伸ばしてしまいそうだった。
 夜の空気を肺いっぱいに吸い込んでから、吐き出す。ふいに感じる寂しさに気付かないふりをしながら、星を見た。
 明日は、普通に、いつも通りに。きっとできる。

::8月 レグラム実習



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