君はマーメイド
休日の朝、いつもより早く起きたリィンは思い立ってバケツと釣竿を持って家を出た。
港町は特別に予定を立てずとも釣りができるのが良い。海都に近いけれど、それほど喧しくないこの町は静かに暮らすにはもってこいだった。
玄関を出て見上げた空は昨晩嵐で酷く荒れていたのだが、今日は正反対に落ち着いている。
落ち葉や、どこかから飛んできた木の枝が散乱する街を抜け、空がやっと白んできた頃、少し遠くの海に船を見つける。あれが港につく頃には、港を中心に町が賑やかになる。すべてが眠りから覚める前のこの時間がリィンは好きだった。
釣り場へ向かう間、波の音だけを拾っていたリィンの耳にふと打ち寄せる波とはちがう飛沫の音が聞こえた。波が岩に当たった音ではない、魚が水に飛び込んだような……しかしそれよりはもう少し大きい音。それなりの大きさのものを水に投げ込んだのなら、似たような音がでるかもしれない。
どうせ通り過ぎるのだから、と顔を覗かせた好奇心に従って音の発信源を探すリィンを、顔を出し始めた太陽が海面をゆっくりと照らす。
波、波、波。
辿るリィンの瞳が波打ち際で一際大きく上った飛沫を捉えた。
さりさりとまだ濡れていない砂の上を歩んで近付いた波打ち際には、たくさんの木片が転がっている。形状から見るに、船か、それに似た大きさのものが壊れて流れ着いたようだ。
木の他、砂に転がる金属片や何かの部品を星座のように繋げて歩き、暫く。寄せて返す波の合間、人間程度の大きさの何かが転がっている。
ぎょっとしてリィンは早足に近寄るが、近付けば近付くほど、それが異様な存在であると視覚が情報を得る。魚なのだ――体の半分が。
「人魚……?」
疑問形になってしまうのは、リィンが『人魚』という存在を初めて目にしたからだ。
人間の生み出した御伽話のひとつ。その大元の、伝承として語り継がれてきた存在。この港町にも昔からいくつかの逸話が残されている、海に住まう生き物。人の体と魚の体を半分ずつ有したそれは、幻覚でも夢でもなくリィンの目の前にいた。
バケツと釣竿を置き、息を殺して人魚の近くに屈み込む。
波に打たれるまま無抵抗の様子を見ると、どうやら意識はないようだ。リィンが見つけたあの飛沫を最後に力尽きてしまったのかもしれないと思ったが、観察してみれば死んでいるわけではなく、小さく胸が上下しているのが確認できる。人魚も人と同じように息をするのだと、少し不思議な気持ちになった。
朝日が稜線をなぞり、露になった顔は作り物のように美しい。淡い灰色の長い髪、人と同じようにみえる体は真っ白で、鱗に覆われた下肢は真昼の海であれば溶けてしまいそうな紺碧をしていた。人間ではないのだから、美しいのは当たり前なのかもしれない。人魚が美しいからこそある船乗りは波に飛び込み、ある人間魂を檻に捕らわれてしまうのだから。
人外の存在に小指の爪程の恐怖はあったが、その肉体のどこを見ても傷があることが恐怖を薄くしていく。傷がつくということは、ある程度自分達人間と同じような生き物なのだろう。頬には擦れたような傷、体にあるいくつかの切り傷や打撲痕、鱗が剥がれた箇所から覗く赤が痛々しい。
傷の手当てをしないと、そう思いリィンはそっと人魚に触れる。
思ったよりも人間と同じような感触がしたが、その温度は人より随分と低く感じた。当然だが、人を抱えたことはあっても人魚を抱えたことはない。慎重に、ゆっくりと持ち上げる。
尾鰭を伝った海水が朝日に照らされ、煌めきながら波に戻る様子をしばらく見てから、はっと我に返って来た道を急ぎ足でもどった。幸いリィンは人より力も体力も優れていたので、人ひとり運ぶ程度なら苦ではない。
バケツと釣竿はあとで回収しようと頭の中で呟きながら、もう随分と姿が近くなった船を横目で見た。いまは街が起きるより前に、この人魚を連れて帰らなければいけない。心無い人間に見つかるより、狭くても多少安全な場所に移動させるべきだろう。
そう言い訳をした。
急ぐリィンの足元が砂から踏みならされた道、そして石畳に変わる。港への道を水揚げのお零れにあずかるつもりの猫がのそのそと歩いてゆく。屋内に気配は感じても屋外に人の姿は見当たらないことに安堵の息を吐いた。
街に入ってしまえば早い、すぐにリィンの住むアパートが見え始める。
(全然起きないな。気を失ったばかりなら、仕方のないことか)
リィンは人魚を浜辺にそのままにしておくことができない自分の気質はもちろん理解していたが、それ以外の理由があることも自覚していた。
久しぶりに、子供のような未知への好奇心というものを胸の奥に感じている。いまも昇り続ける朝陽のようにきらきらと煌めいて存在を主張しているそれに抗う術はなかったし、抗うつもりもなかった。
人魚とはどういう生き物なのか。どんな声を、どんな瞳の色をしているか。
名前はなんというのか。
気になる事は多々あるが、いまはこの腕に抱えた幻を綺麗に隠してしまわなくては。
リィンは意外と早起きな隣人が起きていないことを祈りながら、なるべく普段通りを心がけてアパートの階段をのぼる。石材と靴底のたてる音と自分の呼吸は嫌に耳に大きく聞こえて、自身の部屋の前に辿り着いた時思わず大きく息を吐いた。
人魚を片腕で抱えてポケットの中の鍵を出し、回す。
素早くドアに身体を滑りこませて鍵をかける。
慣れた己の空間。いまそこに人魚がいるのだなと抱えているものを見下ろして、朝から不思議な休日になったなとリィンは苦笑いともつかない笑いを浮かべる。
廊下に点々と水を落としながらバスルームに向かい、掃除をしたばかりの白いバスタブに人魚を下すとリィンは自分の頬を抓る。あまりにも目の前の光景が現実離れしていて、実はまだ夢の中にいるのではないかと思ってしまったのだ。
力を入れすぎてひりつく頬をそのままに、バスタブの横にしゃがみこんで中の人魚を見る。綺麗だなと、まるで他人事のような響きの言葉が頭に浮かんで散った。
蛇口を捻って水を流し始める。
目覚めた街の音たちが窓から入ってくるなか、この狭いバスルームは水槽になる。自宅という最も身近な現実のなかに、ぽつんと存在する人ならざる者。ただそれだけで、じりじりと上がる水位のようにリィンの日常が侵食されていく。
バスタブを満たす水と人魚。眺めていて胸がつまるような感覚は、まるで非日常に溺れているようだった。
そうしているうちに太陽はすっかり高度を上げて地上を照らしていたので、リィンは思い出したように立ち上がる。バスタブをなみなみと満たした水に蛇口を止め、もう一度だけ人魚の長い睫毛を眺めた。ああ、現実だ。