白く狭い世界から

「おはよう、メリル」
「おはようございます、リィン様」

 窓を開き、目隠し用のレースのカーテンを閉めてから、リィンは薬箱を手にバスタブに近付く。
 男の一人暮らしには可愛すぎやしないかと、入居したばかりの頃に苦笑いしていた猫足のバスタブには、数日前に拾った人魚――メリルが納まっている。
 先日の嵐。難破した船の近くにいた彼女は、不運なことに船の残骸に巻き込まれてあの浜に流れ着いたらしい。
 無事に家に連れて帰り、とりあえずバスタブで保護したまでは良かったのだが、肝心の手当てが問題だった。人間と人魚では勝手が違うだろう、鑑賞用の熱帯魚ともまた違うはず。どうするべきか悩んだリィンは友人のひとりに相談することした。
 その友人は人間よりも人魚寄りの……神秘が身近にある環境で生きていた一族の生まれだった。もし何が知っていたらと藁にもすがる思いで連絡をとり、「きっと効くと思います」と友人の祖母が調合したらしい薬を受け取ったのは記憶に新しい。事実その薬は効果があり、メリルの体の傷の多くは癒えていた。残すは下肢の傷だけ、というところだ。
 窓から入ってくる風に目を閉じていたメリルがふっと瞼をあげる。
 初めて見た時から綺麗な生き物だと思っていたが、最も美しいのは瞳だろう。
 彼女を運んでいた時、何色をしているのだろうと思っていた瞳は蒼と翠の異なる双眸だった。
 その瞳を見るたびに、リィンは世界で一番綺麗なものを見ているような気持ちになる。

「気分はどうだ?」
「お天気も良くてとても清々しい気持ちですわ。海鳥達の声も遠くから聞こえて、今日はきっと海も穏やかなのでしょうね」
「正解だ。前の荒れ方が嘘みたいに、ここのところはずっと穏やかだよ。傷は、酷く痛むところはないか?」
「はい、お薬のおかげで随分と楽になりましたわ」

 「一度水を抜くからな」と声をかけてから栓を抜く。そうして古い水を全部抜いて、新しい水で満たす間、バスチェアに座ったリィンとバスタブのなかにいるメリルは風に揺れるカーテンを見ながら話をする。
 人間であれば耳がある場所に人魚であるメリルにはヒレがついている。それでも陸上で音を聞くことに問題はないし、言語もリィンと同じだ。意思の疎通ができなかったらどうしようかというリィンの考えは杞憂に終わり、今では互いに陸の話と海の話をしている。
 地上からみる海の話、陸に住むたくさんの生き物の話。この港町の話もしたし、雪に包まれたリィンの故郷の話もした。海から見る太陽がどれほど綺麗か、水に住むたくさんの生き物とどう暮らしているか、海の中にはどういう街があるか、メリルの故郷はどんなところか、リィンに応えるようにメリルも人魚の世界の話をした。
 海の中のあらゆる文化、メリルがどういう人物なのか。リィンが聞きたいことはたくさんあったし、メリルに聞かせたい地上の話もたくさんあった。朝から晩まで話しても時間が足りないと思うくらい、彼女との時間は楽しく満ち足りたものだ。

「人魚の暮らしは意外と人間と変わらないんだな。言葉も文字もだいたい一緒だし、物の名前だってそう変わらない」
「いまでも地上の商人と取引をしている人魚はいるのですよ。わたくしのいた海は二五〇年ほど前、ドライケルスという人間との記録を最後に陸との交流は途絶えていますが……」
「ドライケルス大帝か! 彼は魔女ともつながりがあったというし、人魚と交流していても不思議じゃない。君達の間ではドライケルス帝はどういう人物として伝えられているんだ?」
「あまり多くは伝わっていませんが……地上の戦争がきっかけで交流が始まったそうです。とても心の広い御方で異種族である人魚への偏見もなく。海の文化にも興味があったのか、一度わたくし達の都市にも来たことがあるそうですよ」
「海の中の都市か、想像がつかないな」

 リィンは目を閉じて想像する。
 青に飛び込む。足が尾になる、耳がヒレになる、息は苦しくならない。上を見上げれば海水というフィルターを通した太陽がそこにあって、その光でゆらゆらと頼りない影法師ができる。それを追うようにずっと深く潜った先には、濃紺と自分以外の人魚や浅い海にはいない魚がいて、そこには彼らが住まう場所がある。
 その海にはメリルもいるだろうか。リィンが陸を歩くように、彼女は海を泳ぐのだろう。
 この白く狭いバスタブではなく、どこまでも青い海の中を。

「不思議ですわ」

 メリルの声に沈んでいた思考が引き上げられる。
 海面に顔をだしてゆっくりと呼吸するように、リィンは色の異なる双眸を見た。メリルの視線はリィンと交わったあと、ぐるりとバスルームを見渡し、そしてまたリィンへ戻ってくる。
 白い、よく見ると薄く小さな水かきがついた手がそろりとリィンに伸ばされ、頬をなぞった。すぐに離れていった水気を孕んだ皮膚は人間と大差ない。

「人間がこんなにも近くにいるなんて、少し前のわたくしは想像もしていませんでしたわ」
「人魚に触れてこうして喋っているなんて、少し前の俺も想像してなかったよ。狭いバスルームで申し訳ないけど」
「いいえ、十分すぎるくらいです。それに、わたくしがこのバスタブにいることで、リィン様にご不便をおかけしているのではないでしょうか」

 風呂については「壊れてしまったから」と言い張って隣の部屋の世話になっている。部屋の主は勘のいい男なのでなにかしら気が付いているかもしれないが、言い出してこないということは法律に触れるような事はしていないと思われているのだろう。
 不便があるかと言われると、そうでもない。メリルに使っている薬は、以前手伝いをした時のお礼という形で受け取っているし。食事だってリィンも一緒に食べられるものを用意しているので、用意する量が増えたくらいだ。元々学院は夏季休暇に入っている。不便らしい不便は特にないように思う。強いていうなら、人間の感覚で言うと露出の多い服装(というほど、布の面積はない)に、時折視線をどこにやるべきか迷うくらいか。

「不便だなんて全然。あるのかもしれないけど、君と過ごすのが楽しくてわからないのかもしれないな」

 リィンがそう言うと、メリルは魚のようにぱくぱくと口を小さく開閉してから、結局何も言わずに曖昧に微笑む。淡い灰色の髪がかかる頬が赤く染まって見えたのが光の具合によるものなのか、それ以外だったのかはわからないが。人魚の頭のヒレはまるで犬か猫のように感情豊かに動くのだなとリィンは紺碧が動く様を見ていた。
 少しの沈黙が二人の間に降りたが、リィンもメリルもそれが嫌ではなかった。ゆっくりと瞬きをする三色が混ざり合って別の色になりそうだと思う。窓から入ってきた夏の風がカーテンを揺らし、ふたりの頬を撫でて通り過ぎる。
 その風が合図だったかのようにリィンとメリルは口を開き、また互いの住む世界の話に花を咲かせはじめた。
 

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