紺碧色の君の欠片

 今日もリィンはバスルームにいた。
 そこにいるのが当然というようにバスルームに馴染んだ人魚に挨拶をしてから小窓を開け、バスタブの水を変え、薬を渡す。今日の外の様子を話したあと、メリルの暇が潰せるようにと渡した本(濡らさないように読むのは少々大変なようだが)の話をし、そしてふとバスタブを覗き込んだリィンはそのなかにキラリと淡く光を反射するものを見る。
 すっかり見慣れたメリルの鱗、しかしそれは彼女の体から離れたもののようだった。
 リィンの目が捉えたものにメリルも気が付いたのか、自身の尾を少しばかり移動させて鱗を手に取った。

「ああ、ちょうど傷の周り不安定だったものが剥がれたのでしょうね」
「見せてもらっても構わないか?」

 剥がれたものとはいえ体の一部だったのだ、迂闊には触れない。
 メリルの下肢。みっしりと規則正しく並ぶ鱗の所々が欠けた姿はもう綺麗に揃うことはないのではと不安を誘うが、メリルから聞いた話では鱗はまた生えてくるので問題は無いそうだ。

「どうぞ」

 思ったよりも気軽に渡された鱗、普通の魚の鱗より大きいそれはリィンの手の中におさまって、きらりと光を反射した。見た目より軟らかく、軽い。空のような、海のような紺碧色には樹木の年輪のように線が入っていた。普通の魚の鱗にもこういった線がはいっているのを知っている。リィンは釣りが好きだが、魚の生態についての知識というものはあまりなかったので、この線の意味するところはわからない。

「この線は年輪みたいだな」
「年輪とはなんでしょうか?」
「そうか、森林がないもんな……。年輪っていうのは、木の断面にできる模様で、一年にひとつずつ輪が増えていくんだ。それを見れば、その木のだいたいの年齢がわかる」
「でしたら、鱗の線と同じですわね。それは鱗紋という年齢のわかる鱗ですから」

 そうなのかと返しながら、ひとつふたつと指の先で線をなぞる。人魚の一年が人間と同じだとすれば、メリルは自分と同じ歳だ。僅かな凹凸を指の先で感じながら、この鱗が欲しいと言ったら流石に怒られるだろうかとぼんやり思う。
 怪我が治ればメリルは海に帰ってしまうし、人魚達が人間に姿を見せようとはしないことはここ数日でわかっていた。再び顔を合わせる機会に恵まれるかわからない。だから、思い出というのだろうか。この夏にメリルに会った、彼女がいた証拠のようなものがリィンは欲しかった。
 そっと小窓からはいる緩やかな光に、そっと鱗を翳す。

「綺麗だな」

 鱗を眺めているリィンの横で、尾鰭を動かしたメリルが「あら」と声をあげる。

「もう一枚落ちていますわ」
「剥がれていても大丈夫とわかってはいるんだが……、早く新しい鱗が生えてくるといいな」
「ふふ、御心配には及びませんわ。人魚には人魚の薬がありますもの、海に戻ればすぐ治ります」
「それもそうか、海なら君達の体にあった薬があるよな。メリルもこんな狭いところじゃなくて、そろそろ海で泳ぎたいだろ」
「このお部屋での暮らしは楽しいですし、陸はとても興味深いですが……。そうですね、少し、泳ぎ方を忘れてしまいそうですわ」
「俺達で言うと歩き方を忘れるようなものか、それは大変だ」

 大変だと、思う。
 早急に海に帰すべきなのだと善性が説く傍らで、もう少しだけここにいて欲しいとぐずる自分がいることを、リィンは自覚していた。
 レースカーテンを通した柔らかな光を浴びるシルエットを見るたび、バスタブの中で楽しげに地上の話を聞く姿を見るたび、尾鰭が弾いた水が宙を舞ったその煌めきを見るたび。どうしようもなく手放したくない気持ちが胸に湧く。
 バスルームの中で育まれた閉鎖的な感情は、暑さ以外でリィンの寝付きを悪くする原因だ。

「海で泳ぐ君が見たいな」
「わたくしは、一族の中でもあまり泳ぎは上手ではない人魚なのですが」
「……偏見だとわかって言うが、人魚なのにか?」
「人間にも、陸で走るより泳ぐことのほうが得意な方はいるでしょう?」

 とても綺麗に泳ぐ人間がいると、メリルは海の中で見た人間の話をした。
確かにこの港町にも、まるで魚のように水中である不自由を感じさせることなく泳ぐ人間がいる。そういう人々の全てが歩いたり、走ったりすることが苦手かはわからないが、泳ぐことが得意な人間がいるのは確かだ。

「じゃあメリルは陸で歩くのが得意な人魚なのかもしれないな」
「ふふ、そういうことにして頂けると嬉しいですわ」

 にこにこと笑うメリルに二本の足は無い、彼女が地に足をつけて陸を歩くことはないのだ。人魚からしたら上手ではない泳ぎで、海の中を自由に移動する。
 自分が海を泳ぐことはあっても、彼女が陸を歩くことはない。リィンはバスルームに入り込む光が眩しいのだと心の中で言い訳をしながら目を伏せた、寂しく思ったことをメリルに悟られたくなかったのかもしれない。
 連れ帰った日から同じだ、酷くアンバランスな様。狭いバスルーム、慣れ親しんだ己の空間、可愛すぎる猫足のバスタブのなかに目が醒めるような美しい生き物がいる。
 異常が異常なままでないのなら、非日常が日常に戻ろうとする何かしらの力がこの世にあるのなら。この空間は水槽ではなくバスルームに戻るのだろうし、バスタブの中にはなにも残らないのだろう。
 手放したくない。
 離れ難い。
 この二つの元となる感情をリィンは知っている。
 執着という二文字、それも否定はしない。けれど、船乗りでもなく王子でもない自分が彼女に抱いているのは、きっと『恋』という一文字なのだ。陸と海で同じ文字で、同じ意味を持つ言葉。

「リィン様」

 メリルが呼んだ名に曖昧に笑いながらそっとポケットに忍ばせた鱗が、ひと夏の罪だった。
 

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