月は遙か遠く
メリルは海の外、人間の世界に興味があるわけではなかった。
ただ、水の中から見る太陽や月の美しい光が好きで、時々それらを直接見るために海面から空を見た。
天の悪戯か、なにか機嫌を損ねたのか。集落から遠くに足を伸ばした(厳密には足ではないが)あの日、突然空も海も荒れに荒れ。不運にも海上に浮かんでいた船が無残な姿になる様を見ながら、メリルもまたその残骸とともに波にのまれた。
人魚でありながら泳ぐことが下手という自覚はあるが、まさか人間のように浜辺に打ち上げられることになるとは、呑気に月を眺めていた時のメリルは思っていなかった。怪我が深いものでなかったのは幸いだったし、自分を見つけた人間が善良であったことも運が良かったとメリルは思う。
リィン・シュバルツァーは穏やかな波のような人間だ。
のどかな海のように常に態度が穏やかであることもだが、陸の世界を語るリィンは様々なものを運んでくる波のようだと感じた。その波音は心地よく。ずっと聞いていたいと思ってから、メリルはそれが叶わないことだと思い出す。
今この時は水の中を踊る泡、瞬く間に指の間をすり抜けて水の外に溶けてしまう。
「メリル」
リィンに名前を呼ばれることが好きだ。いままで呼ばれてきた名前と同じなのに、まったく違う何かのように感じる。かといって他人の名前として認識されるわけではなく、確かに自分の名だとわかるのだ。それは多分、メリルの名前を呼ぶ時に、あの紫の瞳がまっすぐ自分を見ているからだろう。
「メリル?」
メリルははっと顔を上げる。自分の頭の中で反芻したリィンの声ではなく、本当に名を呼ばれていたようだ。心配の混じる目をしていたリィンが、メリルの手元に視線をうつすと「ああ」と納得したような声をあげた。
「写真集を見ていたのか。悪い、邪魔したか」
「いいえ、そんなことは」
写真は確かに目に入っていた。投影魔術ではなく、陸上の不思議な技術で各地の風景を収めた本は、「少しでも地上の風景を知って欲しいから」とリィンがわざわざ購入してきたもので。それをメリルが嬉しいやら申し訳ないやら、少し落ち着かない気持ちで感謝の言葉を口にしながら受け取ったのは昨日の話だ。
「リィン様のことを考えていましたので」
「俺のこと?」
メリルの言葉に目を瞬かせ、そして面白そうにリィンは笑った。
「そんなに考えるようなことがあるか?」
「勿論ですわ。リィン様が陸の人々とお話する時はどういった様子なのか考えてみたり、海のなかでリィン様の目の色に一番近い石は何か考えていたり。もしわたくしの住む場所を案内するなら、リィン様はどこが好きそうか――……」
貝の中のように閉じたバスルームにきてから、リィンのことばかり考えている。
月が少しだけ明るい夜のような髪が綺麗だ。柔らかく細まった紫色の瞳は、地上にある紫陽花という花の色のようだったし。水かきの無い、メリルより大きな手は、幼い事から剣を習っていたという言葉の通りところどころ皮膚が硬く厚くなっていた。人間の美醜というものはメリルにはわからないが、メリルにとってリィンはとても美しいもののように思えた。
内面はといえば。打ち上がった人魚を保護して面倒をみている時点で、とても善良だ。
陸で人魚がどのように伝えられているかを聞いたが、良い印象と悪い印象が半々というところ。よくリィンは自分を連れて帰ろうと思ったなと、小窓から見える空を見ながら思ったのは記憶に新しい。
優しく、そして不思議ばかりをメリルに与える人だ。
そして優しいのは、きっと誰にでもそうなのだろうと彼を見ていると思う。
ああでも、疑問が頭に浮かぶくらい、あたたかな眼差しで自分を見るのは、その眼差しと目を合わせるとどうしようもなく胸が苦しくなるのは、どうして。
苦しいのにずっと見ていたくなるのは、どうして。
生まれ育った海よりも、バスルームの扉が開く音が恋しくなるのは、どうして。この白くて狭い器の中にずっといたいと思うのは、どうして。
どうして、の正体が、わかりそうでわからない。
メリルの話を聞いていたリィンの目がゆっくりと細められる。どこか悲しそうで、息を吐くような小さな声が唇からこぼれ出たのを、メリルは拾った。
「君がずっとここにいてくれたらいいのにな」
自分が人魚なのは、どうして。
二つの足が無く、地を歩くことを許されず、水がなければ生きていけない。ずっとこの場所にはいられず、怪我が治ったのなら海に戻らなければいけない。
リィンの傍にはいられない。そのことが、とても寂しくて悲しい。
バスタブの中から手を伸ばせばあっさりと触れられる距離にいる人が、はるか遠く聞こえるクジラの歌、海に溶ける雨の一滴、手が届かない夜空の月、そういったもののように感じられた。
拾った声にどう返せばいいかわからず、メリルは大事に抱え込んでしまう。聞こえなかったと思っているのか、リィンは何もなかったかのように今日の分の薬を差し出した。手渡される薬は効きが驚くほど良いが、とても苦い。舌先から伝わる味ではないが、メリルは「苦い」としかこの感覚を表す言葉を知らない。
喉をすべり落ちていく薬が効かなければいいのに、そんな考えが頭に浮かんだ。
「傷の具合はどうだ?」
「鱗は戻っていませんが、泳ぐことにはなにも支障ないと思いますわ」
「そうか」
メリルの言葉に暫し考え込んだ後、メリルを見、そしてまた数秒黙ってからリィンが切り出す。
「夜に、一度海に行ってみないか? いきなり帰りの長距離を泳ぐより、事前に少しずつ体を動かしておいた方がいいと思うんだ」
彼の善意だと分かっている。リィンの中で自分は海に帰るものなのだと悲しくなり、そしてそんな自分に呆れてしまった。
じんわりと目の奥が熱くなって、引きつりそうになる声を一度飲み込んでから、ゆっくりとメリルは口をひらいた。リィンの言葉は正しい、拒否する理由が無い。……いや、理由はあるのだ。しかしそれはメリルの我儘で、言えばリィンを困らせてしまうと分かっている。だから、口にすることは許されず、無いも同然だった。
「わたくしもそう思います」
ここにいると、泳ぎ方を忘れてしまいそうになる。
忘れてしまいたいと思っている。
「今度、天気がよかったら一緒に行こう」
はるか遠くクジラの歌に高く声を返したい、海に溶けた雨の一粒を真珠のように掌に転がしたい、水面の月を掬いたい。
「はい、リィン様」
いまも窓の外にある海にいた頃、メリルはこんな感情は抱かなかった。太陽が昇って落ちて、月が昇って落ちて、その様を眺めながら他の人魚に紛れ、ただ漫然と日を暮らした。
他の誰かに強く感情を揺さぶられることも無くすごしてきたメリルにはわからない、この感情がわからない。確かに自分の中に『有る』ことだけは分かる。けれど、それ以外は何も、何もわからないのだ。
ただ近くにいたいと思う、この感情の源を教えてほしかった。