陸の生き物、海の生き物

 雲ひとつない空にぽつりと浮かぶ青白い月は、いつもと変わらず浜辺を照らしている。
 降る月光に、色素のうすい腕の中の人魚は淡く輝くようで、リィンは目を眇めた。
 波の音、リィンの足が砂をふむ音、風の音、メリルの息遣い。それらがはっきり聞こえるほど辺りは静かで、生き物の気配はすれども姿は見えなかった。夜の海辺にふたり、町から遠ざかるようにゆっくりと進む。念のためと水を被ったメリルから伝う水がリィンを濡らし、メリルの尾から離れた雫は砂の上に点々と跡を残した。

「あれが、人間の町なのですね」
「ゆっくりは見られなかったけど。メリルが楽しかったならなによりだ」

 この数日人間の生活圏にいたが、その街並みを見たことがなかったメリルは道中ずっと目を輝かせてリィンの腕の中から見える景色を眺めていた。
 寝静まったアパート、人のいない通り、舗装された道、時折窓から漏れる明り。暗闇に目を光らせた猫、街路樹、町の誰かが世話をしている花壇、眠りについた花。少しだけ寄り道して見た商店の硝子の向こう。
 それら全てがメリルにとっては新鮮だ。リィンから話に聞いていた町は、メリルの想像よりも広く。時刻が遅いこともあり、日中バスルームの窓から聞こえていた賑わいはなく、町は静かに眠っていたが、確かに生きる人の気配を感じる。
 ここがリィンの住む場所なのだと思うと、メリルはどこもかしこも輝かしく思えた。
 そして今、リィンに抱えられ、メリルは初めて己の暮らしている海を地上から眺めた。
 月の明るい夜でも海は黒々としている。海中で自由の利く人魚だって、夜目のきく者以外はあまり住処を出て泳いだりしないのだから、泳ぐことが当然ではない人間が夜は海に寄りつかないのも納得がいく。
 ここら辺でいいかとリィンが止めたのは、メリルを拾った地点よりもさらに町から離れた場所。
 辺りを見回すメリルに微笑んで、リィンは波打ち際から沖に向かって歩き出す。ある程度深さのある所まで行ったほうが、自分の腕から離れたメリルが泳ぎやすいだろうとの判断だ。リィンの太腿が海水に浸る程度まで進んだ時、メリルが声を上げる。

「このあたりで大丈夫ですわ、リィン様」
「そうか? じゃあ、手を離すぞ」

 メリルが頷いたのを見てから、少し屈んだリィンは手を離す。
 想像よりもあっさりと、メリルはリィンの腕からいなくなった。腕にかかっていた重みが消えて尾がするりと抜けていった時、リィンは思わず手を伸ばしかけて、ぐっと堪えた。
 数アージュ先でリィンを振り返ったメリルが「少し泳いできますね」と笑ったのに頷いて、リィンは海水に浸かったまま夜の海を眺める。海水は他の季節より人間が泳ぎやすい水温であるのに、嫌に冷たく感じた。
 リィンの視線の先にはメリルがいる。
 泳ぎやすい位置まで移動したメリルは遠い。
 海に潜ったかと思うと、数秒後に距離の離れた場所で顔を出す。深く潜る時に、水を跳ねて姿を隠す尾鰭のシルエットが美しかった。泳ぎが苦手だというメリルだったが、彼女は確かに人魚なのだ。いま、リィンが海に潜ったのなら、暗い海の中で泳ぐメリルを見ることが叶うのかもしれないが、それをする気にはならなかった。
 初めて見た時は夢か幻かと思った人魚は、時を過ごせば自分と同じように思考し、言葉を話し、笑った。共通点を見出しては親近感を感じ、同じ地に住む隣人のように思え。それはリィンに、彼女の傷が治ってもこのままずっと一緒にいられるのではないかという、淡い、日が昇れば消えてしまうような希望を抱かせていた。
 一度でも海の中を自由に泳ぐ姿を見てしまったら……人間と人魚の、当たり前で、一番の相違点を強く意識してしまったら、その希望が無くなってしまうようで。リィンはそれが嫌だった。メリルとの邂逅が陽炎のような出来事だと理解しながら、希望くらいは抱いたままでいたかった。
 飛沫が上がる。
 彼女は、もう何の苦も無く己の住む世界に帰れるだろう。

「……?」

 何秒、いや何分経っただろうか、メリルが潜ってから視界のどこにも飛沫は立たない。じっと目を凝らしてみても、水平線は夜に溶けてしまって空との境が分からない。耳を澄ませても波の音と風の音が聞こえるばかりだ。
 メリル、と小さく呼んだ名は波間に消える。
 実は怪我がよくなっていなくて、海の下で身動きがとれなくなっている? 
 それはない。素人の目からみても、十分回復していた。
 本当に泳ぎ方を忘れてしまっていて、戻ってこられない?
 それはない。人間とは違う、だってあんなにも綺麗に泳いでいた。
 あのまま、自分のいた場所に帰ってしまったのでは? ――別れの言葉すらいらなかった?
 それは、それは。

「メリル!」

 思考を振り払うように大きな声で名前を呼び、リィンは沖へ進んだ。周囲に目を凝らし、足がつかなくなると波をかく。自分の心臓の音が水音よりも大きく聞こえて、はやく彼女を見つけなければという焦りのまま浜を離れていく。
 ずっと一緒にはいられないことは分かっている、でも、このまま別れるのは嫌だった。気持ちの整理をつけて、別れの言葉をかけて。それでようやく、ようやくリィンは全部に納得がいくと、そう思っていた。

「どこにいるんだ」

 黒い海に、ぽつりとリィンは取り残される。
 慣れた灰色の髪と紺碧の尾を探す。自分が人魚だったのならもっと速く海を泳いで彼女を探せたのに、そんな考えが頭をよぎった。そもそも、リィンが人魚だったのなら、別れを惜しまず共に帰ることができたのに。
 焦燥のなか、今夜海に来たことを後悔し始めた頃、リィンの後ろでパシャンと音がした。

「リィン様! あぁよかった、早く浜に戻りましょう」

 安堵の色を浮かべたメリルが数アージュ先からすいと近付くその一瞬。蒼と翠の瞳に揺らめく月光と波、メリルの手がリィンの頬に触れたその冷たさ。
 夢か幻のような光景のなかで、ああこれは現実だとリィンの頭が理解した瞬間、リィンはメリルのその華奢な体を抱き締めていた。
 当然、何の構えも無かったメリルはリィンと共に水の下に行くことになるのだが、水中であるためメリルは焦る様子もなく。しがみつく様に己を抱き締めるリィンの背中にそっと手を回した。
 ふたり、ゆっくりと海に沈んでゆく。
 くらい海の中を漂うメリルの灰色の髪。白い首筋に顔を埋めていたリィンは、ようやっと顔を上げてメリルの目を見た。その名前を呼ぼうと口を開いても、出てくるのは空気ばかり。眉を下げて困ったように微笑んだメリルの瞳が近づいて、自分と彼女の唇が重なった時、柔らかい唇だとリィンは他人事のように思っていた。
 唇の間から漏れた空気が、頼りなく揺れながら天に還る。
 時が止まってしまえばいいと願ったのは、どちらだったか。
 しかし、時は止まることはなく、水の中の生き物ではないリィンの脳は酸素を求めていた。それがわからないメリルではない、唇を離すと水面にいくことを促すように尾鰭で水を掻いた。リィンの腕が緩むとその手を掴み、沈んだ時と同様にふたりは海面に昇ってゆく。
 海面から顔を出した二人を月の光が照らした。
 酸素を求め大きく息をするリィンの黒髪がぼたぼたと海水を落とす。呼吸を整えるリィンを支えながら、メリルはやはり人魚と人間は違うのだと悲しい気持ちになった。表情を取り繕えている自信はなく、もう少しだけリィンが目を閉じていてほしいと濡れた睫毛を見ながら思う。

「メリル」

 紫色の瞳が、凪いだ海のように静かにメリルを見つめていた。

「君を、海に帰さないといけない」

 頷く。メリルが海に帰ること、人間と人魚が離れ離れになること。それはふたりの為に必要なのだと、今夜理解した。陸にも海にも未練を残さずにこれから先を生きるため、必要なのだ。
 「帰さないといけない」といった口が「帰ろう」と紡ぐ。矛盾とは思わなかった。もう少しだけ別れの時間が欲しいとメリル自身も思っていた。
 リィンはメリルの手を引いて泳ぎ出す。
 こんなにも泳ぎが上手なのにリィンは人魚ではない。あんなにも海で息が続いていても、リィンは人間だ、水かきも鰭もない。
 ふたりは、陸の生き物と、海の生き物なのだ。
 口付けをした時から、人間が当たり前のように持つ、人魚よりも高い熱が移ったようにメリルの唇は熱かった。
 音もなく育っていた、理解ができなかった感情の名前がいまやっとわかったような気がして。メリルは声に出さずにその単語をなぞった。
 すき、と濡れた背中に投げる。当然返事はなかった、それでいい。

「リィンさん。わたくし、明日海に帰ります」
「わかった」

 リィンは振り返らなかった、それでいい。
 涙というのは塩辛いのだと、メリルは初めて知った。流すことも少なかったし、海の中では涙の一粒などすぐ溶けてしまう。己の目から流れ出て頬をつたって海に混ざる、小さな音は波と夜にのまれていった。
 浜が近づく。
 二人を等しく照らす月は、少しだけその姿を傾けていた。
 

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