波音、幻を攫って


 メリルが陸にいる最後の日。
 ふたりとも不思議なくらい、ここ最近の『いつも通り』をすごしていた。
 リィンは朝起きてから果物を切り、バスルームのメリルの所に持って行く。小窓を開けて、風と人の生活の気配と海鳥の鳴き声を迎え入れてから、メリルに薬を渡す。メリルはバスタブの中から、リィンは折り畳み式の小さな椅子に座って、陸と海の話をする。
 窓から橙色の夕日が見えるころに一度だけリィンが外出し、日常の買い物と隣の友人に風呂を借りに行く。メリルはその間、リィンから借りた本を読み、写真集を見たりしてすごす。帰ってきたリィンと一緒に夕飯を食べて、ふたりでまた話をする。
 明日も同じような一日がくるような気さえした。
 夜から深夜になった頃。小窓から町の様子を確認したリィンが、バスタブを振り返って頷く。
 昨晩と同じようにメリルに頭から水を被せて抱え上げ、水だけになったバスタブに寂しさを感じながら表情を保った。ここ数日の主だった人魚は、今日いなくなる。

「リィン様にお借りした本を、最後まで読めませんでしたわ」

 穏やかにぽつりと零された言葉に、リィンは少しだけ泣きたい気分になる。
 海では音楽や投影魔術が主流で、本のように手軽に物語を楽しめるものは少ないのだと、バスタブの中で笑ったメリルは、リィンと話す以外の時間は熱心に本を読んでいた。
 人形の騎士、運び屋とシスター、不思議な博物館……文字を追うその横顔を見ることはもうないのだ。彼女が読み切れなかった小説を海に持って行くこともできない。
 バスルームを出る時のメリルの寂し気な瞳を見たとき、きっと自分も同じような目をしているのだろうなとリィンは思い、目を伏せた。
 夜の町は静かだ。あまり音が立たないようにドアを閉め、水滴を落としながら石材の階段を下りてゆく。石畳を踏んだ時、アパートのどこかの窓が閉まる音がした。猫は見当たらず、昨日より少し強い風がリィンの黒髪と水にぬれたメリルの灰色の髪を揺らす。
 どこにも寄り道をせずに町を抜け、足元は石畳から踏み慣らされた土に変わる。
 美しい星の天蓋がかかる夜をゆっくり歩けばいいのか、足早に行くべきなのかリィンはわからずにいた。一分一秒でも長く一緒にいたい気持ちと、別れの悲しみを一分一秒でも早く終わらせるべきだという気持ちが同じくらい自分の胸に存在していたからだ。
 日中も、今日が最後だと思いたくなかったからそれまでと同じようにすごしていた。
 いつも通りを意識すればするほど、今日が最後だと眼前に突きつけられるようで、リィンは胸の奥から叫び出したい衝動にかられたが、口から出るものは水中の泡のように、正しく意味のある言葉にはならないだろうとも思った。
 腕の中で空を見ていたメリルの視線がフッとリィンに寄せられる。長い睫毛に縁取られた瞳が瞬いてから、春の陽の光のように和らいだ。

「リィン様」

 名を呼ばれるのも今日が最後だと思うと、返事をするのが惜しくなってしまう。

「わたくしを見つけた人間が、貴方でよかった」

 思わず足を止めてしまったリィンの頬を水かきのある手がなぞり、するりと離れる。夜の暗闇の中で、白い皮膚の表面をつたう水が薄ぼんやりと光を反射した。
 月が足元に作る影は人間と、そうでないものの形だ。
 人魚はじわりじわりと布を濡らす水のようにリィンの日常を侵食したが、結局日常にはならなかった。ぽつんと残るインクの滲みのような非日常のまま、リィンに夢のような時間と少しの引っ掻き傷を残して、メリルはメリル自身の日常に帰ってゆく。

「色々なことを教えて、触れさせていただいたこと、感謝しています。リィン様が傍にいてくださったから、地上の事がとても好きになれたのだと思いますわ」
「俺は、」

 今だってメリルを拾った事を後悔していない、人として正しいことをしたと思う。

「……俺も、メリルでよかった。君に会えてよかった」

 リィンのすぐそばに広がる海にどれだけ多くの生き物がいるか、人間には行けるはずもない海の底の世界の景色、陸と海で繋がる歴史に人魚の文化。この短い期間で様々な事をメリルはリィンに教えてくれた。

「驚くことばかりだったし、知らないことが多いなと痛感することも多かったけど。だからこそ、これからやってみたい事が少し定まった気がするし……。そう、充実してたよ」

 メリルを抱え直し、リィンは一歩、また一歩と砂浜を進み始める。
 明日海に帰ると、少しだけ潤んだ声で伝えた彼女の為に地を歩くことができるのは、自分だけなのだ。人工物が遠ざかり、野生の生き物の気配が濃くなったあたりで、今度は沖に歩む。
 つま先から足首、脹脛から太腿。どんどんと海水に埋もれながら進んでいくリィンの腕の中でメリルが小さく声を上げ。その視線は少し先の海面を見つめてから上にあがり、散らばる星の中にある月で止まった。

「今日はとても月が綺麗ですね。こんなにも大きくて、青い月は初めて見ましたわ」
「今夜は数年に一度見られる『ブルームーン』なんだ。前回は……三年くらい前だったかな、故郷で見た記憶があるよ。場所が変わると随分と見え方も違うんだな」
「そうなのですか? であれば、今日リィン様と同じ月を眺めることができてよかったです」
「次はまた三年後くらいになるのか。天体に詳しい人間に聞けば、もっとしっかりした周期がわかると思うんだが……」

 リィンの言葉に三年後と零したメリルがまたじっと月を眺めたが、リィンが海水に浸かっていることを思い出して「ごめんなさい」と謝る。海水温はそれほど低くないのでリィンとしては問題が無かった。大丈夫とだけ返して、また沖に向かう。
 ざあざあと波音が周りを囲み、黒い波が月や星を映して光る。
 リィンはまだ、正しい別れ方というものがわからずにいた。
 メリルに対して無責任でなく誠実であるには、正しく彼女を海に帰すことが一番だと思った。軽々しく「また会おう」とは言えない。「好きだ」なんて、もっと言えない。その時はもうすぐそこまで迫っているのに、別れの言葉の一つも思い浮かんではいない。
 地上にいた期間を、あの青白い月のような、螺鈿のような、美しく楽しいだけの思い出にしてその胸に留めておいてほしかった。海に戻る彼女のなかで、ひっそりと生き続けるなにかになれば良い。
 そうなるような言葉を、リィンは胸から引き出せずにいた。

「ここで大丈夫ですわ、ありがとうございます」

 昨晩よりも沖に進み、人間であるリィンにとっては動き難さを感じるほどの位置に差し掛かったころ、ある程度水に浸かったことで自由がきくと判断したメリルが声を掛けた。リィンの腕から降りようとしたのを、名前を呼ぶことで制し、リィンはゆっくりと彼女を己の腕から解放する。
 するりと腕を抜けリィンと向き合ったメリルの後ろに海原が広がっていることに、違和感を覚える。これが正しい姿だとわかっていても、バスタブという小さな世界にいるメリルばかりを見ていたリィンにとっては、パッチワークのように継ぎ接ぎの光景に思えてしかたがなかった。
 そんな自分に苦笑いして、一度青白い月を見上げる。
 瞬きをして、少しぬるい空気をゆっくり吸って吐いた。視界を下した先、月の光のもとで微笑む人魚を目に焼き付けるように見つめる。
 夢か幻のような光景だ。

「帰ったらしっかり薬を貰うんだぞ?」
「はい。怪我を手当てしてくださったことも、お部屋を貸してくださったことも、それ以外の色々なことも、本当にありがとうございました。わたくし、リィンさんと一緒にすごした時間が、」

 不自然に言葉を途切れさせたメリルの顔が歪んでから、笑みのかたちを作る。いままで見た中で、一番不格好で、リィンと同じ人間のようだと思った。たっぷり一秒黙り、言葉を選ぶように唇を動かしたメリルが空気を震わせる。

「今まででいちばん、楽しかったですわ」

 人魚も泣くのだと、その瞳から零れる雫を目で追いながらリィンは手を伸ばす。触れた頬は人よりも冷たく、目元を拭ったリィンの指をまた新しい雫が伝った。つられてじわりじわりと熱くなる目の奥とうっすらと膜をひきはじめる瞳を瞬きで誤魔化して、きっと不格好になっているだろう笑みをリィンは浮かべる。彼女の記憶に残るのなら、歪でも笑顔がよかったからだ。
 月と星だけが見下ろす黒い海、波音の合間に沈黙が降りた。
 頬に当てていた手が白い首筋を伝い、その細い肩にかかる。本当はその肩を抱きよせて今に留めておきたかったのかもしれないが、何を言えばいいかわからないまま掌はそっと肩を押す。
 それが合図のように、二人はゆっくりと隙間をひろげていく。

「メリル。海でも、どうか元気でな」
「リィンさんも、どうぞお元気で」

 数秒視線が絡んで、ぽとりと海に落される。
 柔らかな灰色が背を向けてゆっくりと海に消えていく様を、リィンは瞬きもせずに見ていた。瞼が溢れさせそうだった涙は、瞬きしなくともリィンの頬を伝って海に落ちる。その音さえも聞こえそうだった。
 まだ、浅い所を泳いでいるだろうか。まだ、己の声が少しでも聞こえる場所にいるだろうか。指の間をすり抜ける泡のように一度も振り返らなかった灰を探しながら、リィンは息を吸った。

「ありがとう、楽しかった!」

 返す声はない。
 波間に光るのは降る月光の煌めき。耳を擽っていくのは穏やかな声ではなく、遙か昔から同じように寄せて返す波音。人魚の姿は、もうどこにもない。
 そのことに、晩夏の夕暮れのような寂寥をリィンは感じた。一日でも一月でもなく、ひとつの季節が終わったような心地だった。実際に終わったのはリィンの非日常であって、まだ夏は続くのだ。
 リィンの頭上にある月が沈んで、あの水平線の向こうから太陽が昇れば、メリルのいない朝が来る。いままで通りの日常が、何かが欠けた一日が来る。
 これが正しい別れ方だったのかリィンはわからない。正しく海に帰した恋は、未熟な果実を齧ったような苦みと少しばかりの傷を残したが。それでもリィンは後悔を感じていなかった。
 あの美しい人魚は、メリルは。
 リィンだけの恋で、リィンだけの幻で、リィンだけの人魚だった。
 

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