るで絵画のような青空。
 そんな青空にリィンは覚えがある。空を駆ける紅い船、カレイジャスの甲板から見た空も同じように美しく澄んだ青空だった。内戦の時も、黄昏の時も、地上と違い空だけは同じようにそこに在って、リィン達を包んでいた。
 空を鳥が横切り、あぁそろそろ戻らなければとリィンは踵をかえす。友人達に任せきりにしてはいけないのだから。
 この葬儀は。

「リィン」

 呼ばれて、微笑む。上手く笑えているかは問題ではなく、とりあえず何かしら顔の筋肉を動かさなければこのまま石にでもなってしまうのではないか思う程、表情が抜け落ちてしまいそうになることを自覚していた。友人達は、この微笑みを咎めはしなかった。どう思っているかはわからなかったが……いまは人の心を読む力が自分に備わっていないことを感謝した。
 歩む。歩み寄る。
 つま先にコツリと石材が当たる。地に添うように、その奥に眠るものを封じるように横たわる石。その先、生きた月日と名前が刻まれた石碑。
 真新しい墓に陽が降り注ぎ、眩しくて目を細めた。誰かが後ろで泣いている、アリサだろうか。いつもは賑やかなミリアムも、今日は静かにユーシスの隣に佇んでいた。ぽつりと、音が降る。誰も彼も、祈りの合間、聖歌の合間、説教の合間、彼女の名前を呼んでいた。
 石に刻まれた名前を目でなぞって、やはり眩しくて、よく見えなかった。

「メリル」

 眠る人の名前を呼ぶ。
 当然、返事はない。リィンの頭の中でこの数年聞いてきた彼女の返事がこだまするだけで、リィンの鼓膜は風が木の葉を揺らす音、誰かの鳴き声、密やかな喋り声、そういうものしか拾わなかった。
 土で囲まれた棺の中で綺麗にされて眠っているメリルの声は、本当に突然聞けなくなってしまった。
 事故だった。
 導力車と導力トラムの衝突、導力車が普及した帝都では年々増えている交通事故。帝都内の移動の中心を担う導力トラムの事故だったため死傷者も多く、メリルはその内のひとりだった。
 リーヴスの分校で連絡を受けたリィンが帝都の病院に駆けつけた時には、もう綺麗にされたメリルがベッドに静かに横たわっていた。目を赤くしたクレアから事の詳細を聞いている間も、事故があったことを理解はできても、それを受け入れることができずにいた。
 ただ、もう目の前のメリルが二度と目を開かないことだけは解っていた。森も海も、もう見ることはないのだと。
 まったく現実味がなかった。
 導力トラムは長く止めておけるものではなく、原因もはっきりとした事故だったため驚くほど早く処理された。
 旧TMPが優秀だったこともあり、流れるように綺麗された現場は、数日後にはいつもの様相を取り戻していた。ただ、道の脇に重なる献花だけが存在を主張し、時折強く吹く風で花弁を飛ばしていた。初めて現場を訪れたリィンの足元にあったガラス片が、妙に輝いていたのを覚えている。それだけだった。
 諸々の手続きをまるで他人事のようにこなした。
 その時間は一瞬で。何もすることがなくなる夜だけは異様に静かだったので、リィンの頭には永遠という二文字がぼんやりと浮かんでは消えた。
 翌日にはもうユミルからエリゼ達が来ていて。リィンは暫く使っていなかった喪服をクローゼットから取り出し、箱の中から鈍く光を受ける革靴を玄関先に並べた。なにがどこにあるのかを聞かれるたびに、己の家のはずなのにわからないことがずいぶん増えていたのだと実感した。
 誰の葬儀の準備をしているのだろうか? そんな疑問をふと浮かべてしまうくらい、落ち着いていた……と、リィンは思う。周りからどう見えていたかはわからない。
 目の前の墓石は静かに佇んでいる。
 何分か、何秒か、ほんの瞬きの間か、どのくらい墓前に立っていたのかわからない。聞きなれた声に呼ばれて振り返ればクロウと、その手の先には小さな影。普段はミリアムと同じくらい元気なのだが、今日は周りの空気の所為か――この集まりの意味を幼いながら察したのか、どこか不安げな様子のリオナがいた。
 娘の前に屈んで紫の瞳を覗き込む。母親譲りの柔らかな灰色の髪を撫でて微笑んだ。今度はしっかり笑えていた。笑わなければいけなかった、この子にはもう自分しかいないのだから。

「ごめんなリオナ。もう少ししたら、家に帰れるから」
「うん……」

 不安げな様子は晴れることなく、クロウと繋いでいる手にぎゅうと力を籠めたのがわかった。
 ここ数日、クロウにはリオナの面倒を見て貰っていた。リオナもクロウに懐いていたし、クロウ本人が言い出したこともあり、有り難く甘えさせてもらったのだ。今日も朝からずっとクロウはリオナの傍にいた、もしかしたら、父親の自分より長くすごしているかもしれない。 
 流石にクロウも疲れるだろうとリィンが口を開くより先に、リィンと同じように屈んだクロウがリオナに声をかけた。明るい声だ。

「ちょっとお前の父さんに話があるから、あっちでエリオットに遊んでもらってきな」
「うん。ばいばい、クロウおじさま」
「お兄さんだ」

 文句をいうクロウから逃げるように、黒いワンピースが遠ざかって行く。
 それがエリオットとアルティナのもとへ辿りついたことを確認してから、クロウはリィンを振り返った。話があるのは本当なのだろう、指で木陰を示して、すたすたと歩いて行ってしまう。そういえばクロウの葬儀もこの霊園だったなと、数年前を思い出しながらリィンもその後に続いた。
 黒い服の人々が、石の前で泣いている。同じように黒い服を着ながら、リィンはどこか膜一枚隔てたような気持ちでそれを見ていた。木に背を凭れかけたクロウが同じように黒い服を見つめている。赤い瞳が何を思っているか、リィンはわからなかった。

「リオナ、暫くうちで預かるか」
「……え?」
「整理しなきゃいけないだろ、色々と。物も、お前自身も」

 リィンを見てはいなかった。
 メリルと似たような灰色の髪が風に少しだけ揺れて、その一秒にも満たない間にリィンはたくさんのことを考えた。
 そうして、ゆっくりと頷く。
 墓石に視線を向けたままのクロウには見えていなかっただろう。

「悪い。そうしてもらえると、助かる」
「おう。今日、荷物だけ取りに行くわ」

 リオナがエリオットのせがんだのだろうか、風に乗ってヴァイオリンの音色が聞こえた。
メリルに聞こえているだろうか、などとは思わない。音という振動が、この土の下に眠る彼女に届くことはあっても、メリルが何かを思うことなどもうないのだから。きっと、そんなことはないのだ。
エマとマキアスが祈りを捧げている。静かに瞑目して、何かを祈っている。自分はあの場所で何を祈っていただろうか、なにも考えていなかったかもしれない。ただ形ばかりの祈りを捧げて、目を伏せていたのかもしれない。数分前のことなのに、まるで何年も前のことのように霞がかっていて掴めない。
祈りや言葉を墓前に供えるのだとしたら、リィンはきっと一生墓の前から動けなかっただろう。伝えきれないことも、伝えられなかったことも、あまりにも多かった。伝えられるはずだったことは、それよりももっと多かっただろう。
もう、叶わないことだ。
 墓石にゼオがとまり、一声長く鳴いてからまた空へ飛びだっていく。それが合図だったように、リィンとクロウは黒い人々の中に戻って行った。
 空はまだ、青い。



「では兄様、また来ます」
「ありがとう、色々と助かったよ。ユミルまで気を付けて、送っていけなくてすまない」
「もう、兄様。小さな子供ではないのですから……」

 お邪魔しました、と背中を向けたエリゼを見送ってからリィンは玄関の戸を閉める。
 リオナは、昨日クロウに預けたので家にはいない。
 リィンの気配しかない家は静かだ。耳に痛いほどしんとしたその空間は、まるで薄らと雪の積もる冬を思わせた。
 つっかけていた靴を脱いで向きを整える。小さな子供の靴の向こう、視界の端に映ったミュールに数回瞬きをして、目を逸らす。片づけなくてはいけないのだ、……片づけなくては。逃げるようにリビングへ足を向けた。
 エリゼが作っていった昼食がテーブルの上に置いてある。椅子に座ってそれを眺めていると、自分の向かいの椅子をひいてメリルが座るような気がした。いつものようにその横にリオナが座って、三人で食事をする。そんな空想を瞼に描く。
 目を開けると一人分の食事が胃に入る事を待っていた。
 メリルがいなくなっても、こうして食事をして栄養を取って血肉にして、生きていける。そんな当たり前の事が空っぽの胃に響いて、無性に苦しく感じた。
 普段より時間をかけて一人分の食事を食べ終わり、皿だけが残る。食器をシンクに置き、今度はソファに座った。ソファの左側はリィンの定位置で、常なら隣にはメリルがいた。いまは、誰もいない。

 家族との別れというものは、リィンの人生において初めての事ではなかった。
 朧げにしか覚えていない実母・カーシャとの別れ。リィン・オズボーンだった頃、自分を手放したギリアスとの一度目の別れ。黄昏の幕引き、リィン・シュバルツァーとして向かい合ったギリアスとの二度目の別れ。
 幼少の記憶は無いに等しく。黄昏時の別れも、不思議と涙は出なかった。
 だからだろうか、今回の喪失をリィンはまるで初めてのことのように感じている。
 どうすればよいのかわからなかった。あるがままの事実を理解しているのに、心が追い付かない。置いてきぼりの心をそのままに、やらなければならない事が押し寄せた。そうしているうちに葬儀が終わり、諸々の手続きや各所への連絡は残ってはいるものの、一端の区切りを迎えた。
 冷たかった。
 最後に触れたメリルの頬も、昨日撫でた石碑も、いま座っている隣の空白も。全てが冷たかった。触れたところから凍えて、心臓まで凍てつくようだった。
 凍った心臓が血液を送り出さないような錯覚を得る、肺もまるで言うことを聞かなかった。酸素を求めて大きく息を吸って、リィンはようやく自分が咽び泣いているのだと気が付いた。
 流れ出るものを拭いもせずに、息を吸って吐く。
 部屋には独りだった。親でも教官でもない、ただのリィン・シュバルツァーしかいなかった。
 静かな部屋にひとりになって、リィンの心はようやく今に追いついたのだ。
 ARCUSで連絡を受けたあの時からぽたりとも零れなかった涙が、大粒の雨のように衣服を濡らしていく。堰を切って溢れ出し、頬を伝って落ちてゆく。
「あぁ」
 悲しい。寂しい。この苦しさはなんだ。胸の古傷をこじ開けて抉り取ったよう、なこの虚ろはなんだ。
 永遠などないとわかっていた。限られた時間の中でしか共にいることができないと、わかっていたからこそ大切にしてきた。いつか訪れる別れを、二人理解して共に生きてきたのだ。
 しかしその別れは、こんな天災のように降ってくるものではなかった。こんな別れをリィンは想像していなかった。
 メリルの最後の言葉すら知らない。
 何を思っただろうか、自分達のことを思い出しただろうか。かつて自分の命を路傍の石のように思っていた彼女は、生きたいと、死にたくないと思っただろうか。

「っう、あ、ああ」

 リィンが泣こうが喚こうがメリルはいない。
 ぽっかりと口を開けた墓穴を見た。ゆっくりと下ろされる石の蓋をみた。メリルは土の下、石の棺の中ひとり静かに眠っている。
 知っている、理解している。
 それなのにまだリィンは、自分のこの慟哭を聞いたメリルが隣に座るような、そんな気がしてならないのだ。あの白く細い、優しい手が背中をさすって、リィンの悲しみを拭ってくれるのだと。そう、今もそう信じて疑わない。
 矛盾している。
 喉が引き攣り、胃の中身が出そうだった。
 暫く、そうしてソファで泣いた。
 リィンの隣に誰かが座ることはなく、顔を上げた頃には窓から射した光が部屋を優しく染めていた。冷たく他人面をしていた静かな家がようやく慣れ親しんだ我が家になったように感じて、リィンは体の力を抜く。瞼が重く熱いのに、目の周りは少しつっぱるような感じがしてリィンは指先で目元に触れる。頬や首には零れた涙やらなにやらの跡が残っているようだった、シャツも張り付いて気持ちが悪い。
 ひとまず顔を洗うべきだろうとソファを立った。

「……酷い顔だ」

 苦笑いすると、鏡の中のリィンもぎこちなく笑う。
 蛇口をひねって水を出す。冷たい水は心地良く、手で作った器が満たされ溢れても、暫くそうして眺めていた。顔を洗うと、少しばかり思考もクリアになる。
 やらなければいけない事はたくさんあったが、無理に急いで片づける必要もないだろうと結論付ける。
 今から目につく物全てを片づけてしまったら、クロウの家から帰ってきたリオナが困惑するだろう。家に帰ってきたらメリルの痕跡が欠片もない、なんてことはきっとリィンだって耐えられない。思いついた時に片づけて、それで気持ちの整理がつくのかはリィンにはわからなかったが、ゆっくりでいいのだ、恐らく。もしかしたら、気持ちの整理なんてものはこの先一生つけることができないかもしれない。
 使ったタオルと濡れてしまったシャツを洗濯カゴに入れて、リィンは寝室へ向かった。
 リオナを授かった時、リィンひとりで使っていた部屋を夫婦の寝室としたそこは、リィンとメリルふたりの私物が入り混じっている。
 本棚にはリィンの歴史書とメリルの料理のレシピ本、リベールで人気の小説。メリルの鏡台。リィンが使用する机の正面には、懐かしい学院祭の集合写真。新旧Z組の面々が並ぶ写真、結婚式の写真やリオナが赤ん坊だった頃の写真が飾られていた。
 窓を飾るカーテンはメリルが選んだものだったし、夫婦と一人娘がならんで寝るベッドはリィンが選んだ。ベッドの上に転がるウサギのぬいぐるみはアルティナからの贈り物で贈られたリオナはいたく気に入っている。
 様々な物が置かれた、家族三人の部屋。
 ゆっくりと眺めて、数回瞬きをした。
 シャツを着て鏡台の前に座ると、メリルが愛用していた香水が目に入る。美しい瓶のラインをなぞって、一回バルブを押すとふわりと広がる香り。嗅ぎ慣れたメリルの匂い。鏡の向こう、「お揃いですね」と微笑むメリルの虚像を見る。目を閉じて、目を開いて、鏡に映るひとりを見た。
 つるりとした鏡台の取っ手を掴んで引けば、アクセサリーの類が収められている。その大半はリィンがプレゼントしたもので、古いものでは学生の頃に贈ったものもある。
 大事にされていたのだろう、曇りひとつないブローチを手に取って目線の高さに掲げれば、嵌めこまれた小さな紅耀石がきらりと光った。
 紅を好んだのはリィン、だからメリルにも贈ったのだ。自分とメリルとの繋がりになるように、隠しきれない独占欲の顕れのように。いつしかそれが当たり前になり、紅はメリルの色になった。彼女の纏う紅が好きだった。

「リオナが大きくなったら、つけるかもしれないな」

 ピアスやネックレス、ブレスレット、指輪。手入れを怠らなければ、リオナが大きくなってから身に着けることができるはずだ。そこでようやく、メリルはもう一人娘の成長を見る事もないのだと思いつく。
 「空から見ている」「女神のもとで見守っている」そんな風にリオナに声をかけている人々もいたけれど、そんなものは、やはり気休めだ。ここにメリルはいないのだから、リオナの成長をこの先見守っていけるのはリィンだけなのだ。しっかりしなければ、……しなければ、いけない。
 ブローチを丁寧にしまって、引き出しを閉じた。
 また少し、目の奥が熱くなる。
 もういないと自分に言い聞かせても、メリルの気配が強過ぎる部屋の中にいると、まだそこにいるような気がする。
 メリルの顔や声、匂い、しぐさ、共有した時間。
 いつか『思い出』になるのだろう。なってしまうのだろう。少しずつ欠落し、美しいもので補強された、そんな記憶の美術品に。

「メリル」

 リィンさん。
 どんな音よりもはっきりと、耳に馴染んだ、自分の名前を呼ぶ声。靄がかってもいない、鮮やかにリィンの脳裏に蘇り、心を撫でていく声。
 「メリルの声は優しかった」、そんな味気のない言葉で終わらせてしまうようになるのだろうか。忘れることなんてないだろうという気持ちはあるのに、自分が人間である以上、逃れられない忘却というものを酷く恐ろしく感じた。
 窓を開け放つ。
 入り込んだ風が青いカーテンを揺らす。リィンしかいない部屋の中に外のざわめきが滑りこむ。遠くの通りを歩く観光客。買い物帰りの住民。休憩をする道場の門下生達のの微かな喋り声。石畳を駆ける日曜学校の帰りの子供達の朗らかな笑い声。いつもの街並みがリィンを包んだ。
 こども。
こどもになりたかった。
こどもになって、人ごみの中、脇目もふらずにメリルを探したかった。大声で名前を呼びたかった。どうして近くにいてくれないのかと喚きたかった。理不尽に怒り、悲しみたかった。忘却、空白、そんな事を考えないような幼いこどもになりたかった。
なれないと解っている、できないと解っている。だから、リィンはそっと目を閉じた。
「愛して、るんだ」
 愛している。愛しているのだ。
今この瞬間、過去のすべて、この先だってきっと。教会で誓った時も、朝起きてその瞳を見た時も、夜の夢に沈む前に頬に口付けたときも、冷たい石碑の前で呟いた時も、変わらずリィンはメリルを愛している。
 メリルはリィンの幸せだった。ひとつの幸せが形をもった存在だった。リィンとは別の人間でありながらリィンの心の奥に根付き、リィンを生かすもののひとつだった。
 共に過ごす中で、彼女からリオナが生まれて、幸せがひとつ増えた。だからリィンは解るのだ。
 幸せがひとつではないから生きていける、別の幸せの為に生きることができる。
 メリルがいなくても、リィンは生きていける。
 事実、リィンはリオナを置いてメリルの後を追おうとは考えなかったし、メリルがそれを望んでいないことだけは確信が持てた。
 リィンとメリル、ふたりの共通の幸せがリオナで、彼女をこの先も見守っていくことがメリルとの繋がりであると、リィンは解っていた。解っているのに、苦しくも感じた。 
 メリルの為だけに生きて死ぬことができないこと。そんな、酷く無責任で傲慢な考えを自分が持っていること。自覚をしてから抱く、娘や友人達への罪悪感。その全てがリィンを苛んで、瞳から零れていく。
 風が、部屋のなかのメリルの匂いをさらっていく。
 手首につけた香りも、伝い落ちる雫も、音にならない言葉さえも、風がさらっていく。さらわれて、消えていく。
 滓のように重なった喪失感の上を風は撫でていくだけで、リィンの内から攫ってはくれなかった。しかし、それでよいのだと思う。
 この痛みも悲しみも、リィンものなのだ。
 メリルを喪ってできた隙間も、全部、全部、メリルがリィンに与えたものなのだから。リィンはそれらを手放したくはなかった。言葉にできない痛みでさえ、リィンだけのものだ。他の誰にも理解されなくていい、他の誰にも渡すことなどない。
 これは、リィンだけのものだ。

「メリル」

 最初で最期、メリルがリィンに齎した傷。
 それは応急手当などではたりない致命傷なのかもしれない、それは塞がることなく血を噴き出し化膿するものかもしれない。
 だからきっと、この痛みに耐えかねた脳がまぼろしを見せるのだ。幸福なまぼろしを。
 幸せの残り香を。

そのまぼろしは 幸せの残り香だ



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