廊下に掛けてある絵画は、大事な友人から貰ったのだと、リオナは聞いていた。
青と緑のコントラストが美しい、澄み渡る風を感じるその絵は、ノルドの地を描いたものだ。
リオナはその地を幼い頃に一度だけ訪れたことがあった。
この絵を描いた両親の友人の故郷。馬に乗せてもらいはしゃいだ記憶、自分を支える父親の温かい掌、自分達を見つめる母親の優しい瞳。それらをリオナは鮮明に覚えていた。
ぼんやりと絵を見つめていたリオナは、開け放たれた窓から聞こえた子供の声にはっと我に返る。足を止めてしまっていたが、出かける支度をしていたのだ。
慌てて洗面所に入り、鏡の前で髪をとかす。自室にある鏡台を使えば良いのだが、小さい頃からこの洗面台の鏡を使っていたからか足がこちらに向いてしまうのだ。部屋に鏡台を運んでくれた父親には申し訳ないが、もうしばらくはここを使わせてもらう予定だ。
灰色の髪は母親譲り、紫色の瞳は父親譲り。
小さい頃から「大きくなったら美人になる」と言われた顔立ちは母親によく似ていて。かけられていた言葉通り、人より綺麗であるとリオナは自負しているし。今も美人だと言われているのだから、そうなのだろう。
昔は父親に結んで貰っていた髪も、今では自分で綺麗に結ぶことが出来る。なんなら、父親よりも趣向をこらした髪型にだってできるのだ。ふふんと鏡の前で鼻を鳴らして、仕上げにキュッと紅いリボンを結んだ。
一年に一度。夏至祭よりも、なによりも、おめかしをして外に出る日。
夏の暑さは煩わしいけれど、その時一番お気に入りの服を着て、お気に入りのアクセサリーをつけて、お気に入りの香りを纏う。てっぺんからつま先まで一番好きで、可愛くて、綺麗な自分にして向かう。
しばらく鏡の前で悦に浸っていると、自分の部屋に全身鏡があるのに洗面所にネクタイを結びに来た父親、リィン・シュバルツァーと鉢合わせる。
リィンはリオナを見ると「今年も可愛いな」と微笑み、頭を撫でようと手を浮かし――髪型が崩れるからやめろという娘の無言の訴えに、苦笑いしながら手を下げた。
慣れた手つきでネクタイを締めるリィンは、年頃の娘がいる父親にしては若々しいとリオナは思っている。友人に「リオナのお父さん、かっこいいね」と昔から言われてきたので、少なくとも他人から見て好感をもてる外見をしているのだろう。身内贔屓ではあるが、リオナだってそう思う。母親の容姿ばかり話題にあげられるが、父親だって整っていると娘は思っているのだ。
「その服、可愛いな。帝都じゃあまり見た記憶はないが」
「共和国のショップがクロスベルに出店してたの。この間ユウナさん達と遊んだ時に買ったんだ」
「よく似合ってる。うーん、そろそろドレスも買わないといけないよな……」
「もう、今年に入ってそればっかり! 社交界デビューとか、そもそもパーティーなんか行くかわからないのに」
「大事だぞ。立派に、でも悪い虫がつかないようにやらないと」
少々過保護なのが欠点だが、それはきっと片親でリオナを育ててきたからなのだろう。
名門士官学院の教官をしながら、自分を育てるのは大変だったと思うが。リィンは人に恵まれていたようで、リオナは行儀作法や学業はもちろん、その他の色々なことを父親の友人達から教わっていた。戦いに関しても、父を師として八葉一刀流を学んでいる。
自分ほど恵まれた人間もそうそういないだろうと、リオナは胸を張って言えるし、教えてくれた人達に恥ずかしくないように努力だって当然してきた。
つまり、リオナからしたら、自分がリィンにとって可愛い一人娘であることは当然なのだ
ふと、鏡の中のリィンと目が合う。何かを懐かしむような色をしていたので、リオナは何も言わずに受け入れた。きっと、鏡の中の姿に、リオナの母親の……リィンからしたら妻の姿を見ていたのだろう。そういうことがあってもおかしくない日だ。
身支度を整え、火元と戸締りを確認して頷き合う。廊下の絵を通り越して玄関へ。
「あ、お父様。お花は?」
「まだ受け取ってないから、行きに花屋に寄って行く」
「わかった」
目的地は帝都から遠くないが、そもそも帝都が広い。そして帝都から外は魔獣と遭遇することもある、となれば必然的に動きやすい靴を選ぶことになる。もう少しだけヒールが高いほうが可愛いかったなと唇を尖らせながら、リィンに続いて靴を履く。
「行ってきます」と二人分の声がこれから空になる我が家に響いて、玄関のドアが閉まった。
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外はまさに夏真っ盛りといった様子で、立っているだけでも溜息が出てしまいそうな暑さだった。
ライカ地区から導力トラムに乗ってヴェスタ通りへ。目的の花屋で店主と一言二言言葉を交わし、リィンが大切そうに花を受け取った。
ヴェスタ通りからまたトラムに乗って帝都の出入口へ。帝都の外、街道での露払いは自分がするからと、リィンに渡された花をリオナは眺める。白い包装紙と青いリボンで纏められた、紅いグランローズの花束。
毎年目にするそれに込められた意味を、リオナはまだ、全て正しく理解はしていないのだと思う。
快晴のもと、特に障害もなくたどり着いたヒンメル霊園。帝都がよく見える場所に、それはある。
地に添うように、その奥に眠るものを封じるように横たわる石。その先、生きた月日と名前が刻まれた石碑。よく手入れされた墓に陽が降り注いで、眩しくて目を細めた。
既にいくつか花が置いてある墓前にリオナが持っていた花を供えると、リィンが跪いて祈りを捧げた。同じように目を閉じて、リオナも祈る。
今日は、メリルの命日だった。
メリルが亡くなって、もう何年経つだろう。事故の記憶は人々の中から風化し、リィンは歳を重ね、リオナも大きくなった。
母親の死を理解するには、当時のリオナは幼すぎた。この霊園で葬儀が行われた時。皆が哀しみ泣いていた事、リィンが怖い顔をしていた事、クロウが自分にずっとついていてくれた事、メリルが土の下へ埋められてしまった事。
両親の友人達が代わる代わるリオナのところへ来ては優しく抱きしめたあの日から、家から母親がいなくなったこと。そのくらいしか、解らなかった。
先に祈りを終えたリィンが立ち上がる。
父親の祈りは、いつも短かった。リオナより定期的にこの場所に通っていることは知っている。命日だからと特別長く祈る必要もないのかもしれない。いつもしている事の延長線なのだろう。
リオナは、毎年何を祈れば良いかわからなかった。今ここで心のなかで言ったことが、母親に届くとは思えなかったからだ。墓石から返事が返ってくるわけでもない。祈る父親の横で棒立ちするわけにもいかず、ここ最近で起きたことを心の中で報告するだけになっている。そうでなければ、父親が何を考えているか想像する時間になっていた。
形ばかりの祈りを終えて、リオナも立ち上がる。
「ユーシスが先に来ていたみたいだな」
「ユーシス様が? お父様、よくわかるわね」
「いろいろと豪華だ」
なるほどとリオナは笑った。
確かに、自分達の持ってきた花よりも豪華だ。ユーシスはもしかしたら簡素にするよう頼んでいるのかもしれないが、用意する側からしたらあまりに簡素なものを作って公爵の顔に泥を塗る訳にもいかないのだろう。花が置かれるのは墓場で、自分と関係のない墓に置かれた花などだいたいの人間は気にしないのではないかとリオナは思うのだが……。
メリル・シュバルツァーと刻まれた墓石を眺めてから、リィンの横顔を見た。
「ねぇ、お父様」
「なんだ?」
「再婚とか、しないの?」
リィンが目を見開く。
リオナと同じ色をした瞳が悲しそうに、寂しそうに揺らぎ閉じられ。数秒の後、瞼がゆっくりと上がる。石碑の文字をなぞるリィンの目はそこにメリルがいるのかと思うほど優しく、リオナに向き直ったリィンの顔は酷く穏やかだ。
夏の暑さ、苛烈な太陽光、塗料をぶちまけたような青と白の天蓋、鼓膜を揺らし続ける虫の声。そういったものが全て遠のく。
「愛しているんだ。だから、」
そう言ったリィンの声は、本当なら周りの音や風にさらわれていたのかもしれない。
眩しそうに、懐かしそうに、惜しむように細められた目が、自分を通り越したなにかを見ていることをリオナは理解した。
リオナの向こうの姿、鏡に映る幻。
何年も経ったいまでも変わらず、リィンはメリルを愛しているのだ、心から。それもそうだ。愛していなければ、毎年毎年、グランローズの花束など用意しないだろう。
「まだ、他の誰かの隣に立つ気が起きないんだ」
他の誰かの隣に立つ気が起きないといいながら、他の誰かを自分の隣に立たせるつもりがない、と。リオナにはそう言っているように聞こえた。リィンの横に立ちたいと思っている人はたくさんいるだろうに。その人達の眼差しを拒んで、この人は隣にぽっかりとあいた空白を愛している。
「そうなんだ」
リオナは少し前まで、リィンが新しく恋人をつくったり再婚をしないのは、自分がいるからだと思っていた。
連れ子というのは難しい。相手の女の人と相性が合わなければ最悪だと思う。もちろん、リィンが性格に難のある人を連れてくるとはリオナは思っていなかったが……。リオナが色々なことに折り合いをつけられるくらい大きくなったら、リィンも恋人をつくったりするのかな、なんてリオナはぼんやりと考えていたのだ。
しかしそんな様子も、女性の影もなく。リィンとリオナは何回目か忘れてしまった墓参りに来ている。
「単純に今は一人が楽なのもあるけどな。リオナも大きくなったから、自分の趣味のことばかりしているし」
「釣りばっかりしてるもんね」
「実益があっていいじゃないか。夕飯のおかずが増える」
朗らかに笑ったリィンが墓の前から歩き出す。この暑さの中で長居をするつもりは無いのだろう。いや、リオナに長居をさせるつもりがない、が正しい。
やはりどこか過保護なその背中を見、一度だけリオナは振り向いた。真っ赤な薔薇が風に吹かれるも花弁を散らすことはなく、紙の中で揺れている。
リオナは知っていた。
リィンが後ろを振り向く回数が減った。何かを探す時パッと顔を上げて唇を開きかけては、バツが悪そうに閉じる回数が減った。寝言で母親の名前を呼ぶ回数が減った。装飾品を見る回数が減った。自室ですごす時間が減った。紅いものを買うことが減った。準備する食器の数を間違える回数が減った。他にも、たくさん。
数年かけて、リィンの日常に混ざり馴染んでいたメリルの影が、少しずつ薄れてきたのだと思う。
しかしそれは、愛が薄くなっただとかそういうことではなくて。きっと、ようやく一人でいることに慣れたのだ。
一人になってなお、愛している。
(お母様)
リオナは成長し、リィンは歳を重ねる。
父親の横に母親がいた記憶は、リオナの中に確かにある。しかし今では、父親の横がからっぽである年数のほうがリオナのなかで長くなってしまった。リィンだって、メリルを失ってからの時間が長いだろう。そういうものだ。時は止まらないのだから。
四季が巡って、また夏が来て、命日がきて、二人がここに来るように。絶えず流れ続けて、メリルのことをずっと遠いものにしてしまう。過去との距離が縮むことはなく、これからももっともっとメリルは遠い記憶になるのだ。思い出すら薄れてしまう。いつか鏡に映る自分を見ても、母親のことを思い出さなくなるのかもしれない。
そのことを、リオナは寂しく思った。
霊園を出てすぐ、リィンが汗を拭う。足元には夏の濃い影が落ちている。
「今日は特別暑いな……」
「ヴァンクール大通りに、オルディスで人気のアイスの屋台が出張して来てるんだけど」
「はは、寄って帰るか」
「やった! お父様大好き!」
「全く、現金なやつだなぁ」
冷たい甘味が待っているなら足取りも軽い。
魔獣への警戒は怠らず、行きよりも早足にリオナは帝都への道を辿る。太陽は真上で輝き、容赦なく灼熱を叩きつけてくる。
ふと、後ろの気配が足を止めていることに気が付いてリオナは振り返る。
そこには当たり前のようにリィンがいた。立ち止まっているその視線は先程二人がいた場所、ヒンメル霊園に向けられている。リオナが目を瞬かせていると、娘の視線に気付いたリィンが、早足にリオナの横に追い付く。
ああほら、今も。
熱を帯びた空気を震わせることなく、リオナは呟く。
一瞬。
ほんの一瞬。自分と同じ菫色がきゅうと細められて、愛おしそうに名前をなぞったのをリオナは見逃さなかった。
リィンは、幼い頃の記憶と違わない表情をしていた。遠くなってしまった、リィンとメリルとリオナの三人ですごしていた頃。リオナがよく見た、メリルを見つめる時の顔。幼いながら、父親が自分に向ける大切と、母親に向ける大切は違うのだと理解した、決定的に違う愛の形。
夏の太陽を見上げる向日葵のような。人が満天の星を見上げるような。水中から水面を見上げて、焦がれるように。
消えない幻を愛している。