せという棘が、心臓に刺さって抜けないのだと思う。
 父親のものでもあったこの心臓は愛する妻との別れを二度も経験した。一度目の傷が癒えないまま忘れ去られ、二度目は刺さった場所からずっと血を流し続けている。その棘を無理に抜こうとは思わなかった。棘があろうとなかろうと、傷口は癒えないままだろう。
 何回も何回も季節が巡って、冬になった。
 隣が空っぽのままの、数回目の冬。
 漆黒の天蓋では、冬の冷たく澄んだ空気によって星が煌めいている。あたりを包むのは雪が降る音さえ聞こえそうな静寂だ。
 いつ何時も人の多い帝都とはいえ、導力トラムの運行も終了した真夜中となれば出歩く人間は少ない。ここライカ地区は観光地としての面もあるが、この時間になればそれらは全て門を閉ざしている。観光通りを一本奥に入ってしまえば住宅が並び、その窓から盛れる光も極少数だ。
 リィンの足元では、すでに薄らと白い雪が石畳を覆っていた。予想より空から降りてくるものの量が多い。メリルは寒さに弱かったなとぼんやり雪を眺める。
 ユミル育ちのリィンと違い、寒さに弱いメリルは冬になると小さな動物のように縮こまってはリィンに体を寄せてぬくもりを求め、リィンはそれを毎年可愛いと思ってすごしていた。リオナが生まれても変わらず、娘と夫どちらにも触れて暖をとる姿は、もう随分と遠くの出来事だ。

「メリル」

 返事がないことを、疑問には思わない。
 足も止めず、振り返りもしない。小さく呼んだ名前は白い息とともに夜の暗闇に溶けていくだけだ。
 心の内側でかえってくる声は意外なことにまだ鮮明だ。鮮明だとリィンは思っている。もしかしたら、本当はメリルの声とかけ離れていて、異なっているとリィンがわからないだけかもしれない。
 ため息を空にはなして、誰もいない往来で立ち止まる。背後には、リィンの足跡だけが残っている。それを、ひどく悲しいとは思わない。ただ、いまだに隣が空白になったことを寂しく思う。
 棘が刺さったまま、血を流して歩いている。ひとりぶんの足跡はまるで血痕のようで、夜だというのに白とのコントラストが嫌に眩しかった。

「……寒いな」

 誰の耳にもはいることのない言葉を紡ぐ。返事はなく、空いた手に重なるぬくもりもない。いつかと同じように、風にさらわれるだけだった。
 また帰路を歩み始める、家はもうすぐそこだった。

「ただいま」

 暗い家の中に声を投げて、靴を脱ぐ。
 今日、リオナは友人の家に泊まると言っていたので、家には誰もいない。絵画のかかった廊下の照明をつけて、リビングへ行く。途中、自室に鞄と上着を置く。
 ARCUSに入っていたメールのとおり、キッチンにはリオナの作った夕飯があった。夕飯というには遅い時間ではあるが、昼食からなにも入れていない胃はそのまま寝るという選択肢がなかった。
 鍋に入った雉肉のシチューを火にかけて、リィンは出しっぱなしにされている料理手帳を手に取る。
 リィンとメリルが黄昏に立ち向かっていた頃にメリルが使っていた料理手帳だ。中にはリィンの好物やZ組の誰かの好物、ユミルの郷土料理についてがメリルの字で綴られている。リィンの私室の本棚にはいっていたのをリオナが見つけて、そのまま持っていたようだ。
 手帳にある雉肉のシチューはルシアに教わったのか、実家で食べたものと味がよく似ていたので驚いたことを覚えている。たとえかけ離れた味だったとしても、メリルが作ったものなのだから好きだったとは思うが……。
 いま鍋の中にあるものは、どんな味がするのだろうか?
 リオナがこのシチューを食べたのは幼い頃だ、母親の作ったシチューの味を覚えていただろうか。この手帳を見て、どんな思いで作ったのだろうか。母親の料理を食べていた年数より、父親の料理を食べている年数がすっかり長くなってしまった。ぐるぐると思考を巡らせているうちに熱くなってしまったシチューを皿に盛る。
 テーブルについて、湯気のたつシチューにスプーンをいれる。柔らかいクリーム色をした液体の中、人参や玉ねぎやブロッコリーなどの王道の野菜がいびつな、大きいサイズで入っている。少し大雑把な様子が見て取ることができ、リィンは小さく笑った。
 料理の仕方は自分ともメリルとも似ていないのかもしれないなと思いながら、皿からでてきたコンニャクに首をかしげる。冷蔵庫の中にあったから入れました、という感じだろうか。食べてみればおかしくはない……とリィンは思った。見た目はやや珍妙ではあるが。そもそもリィンも前日の残りのブロッコリーを味噌汁に入れたりしていたので、もしや冷蔵庫にあるものをなんでも投入するのは自分の影響なのではと考えながらシチューを口に運ぶ。
 結論として、シチューはたいへん美味しかった。
 使った食器と空になった鍋を洗い、鞄から資料と次の小テストの問題用紙を出してきたリィンはソファの定位置に座った。ソファは一人分の重みで沈む。そろそろ買い替えてもよいかもしれないと、少しくたびれたソファの表面を撫でた。
 リオナが小さい頃は彼女から目を離すわけにもいかなかったので多くの時間をリビングで過ごした。リオナが大きくなってからはその必要もないのだが、名残のようにリビングですごしてしまうのだ。リィンがに長く居座っては、ソファで寝てしまいリオナに呆れられる。それがここ数年のシュバルツァー家で見られる光景だ。
 昔は、私室に戻ることが少し辛くもあったので、私室ですごす事を避けていたのもあった。
 私室――夫婦の寝室は随分と物が減った。
 大きなベッドはそのまま。衣服はもう男性物しかおいておらず、鏡台があった場所には細身の本棚が置かれている。すっかりリィンの私物ばかりになってしまった部屋にも、もう慣れてしまった。寝て起きて、服を着替えるだとか読む本を吟味するだとか、そんなことしか私室ではしなくなったと思う。
 メリルの気配の薄らいだ部屋は、リィンの中のメリルの気配も削っていくようだった。
 深いため息を吐いて、教科書を広げる。リオナがいない静かな家は考え事に向きすぎていて、良くない。窓の外の静寂さえ聞こえそうなほど静かで、ひとりだ。
 小テストの残りの問題を作ってしまおうとペンを取って数分。どうにも集中できなかったリィンはまたため息をついて、コーヒーでも淹れようとソファを立った。
 キッチンの隅にあるコーヒーメーカーに水と、マキアスから貰った豆を入れる。便利になったもので、あとは機械が勝手に作ってくれる。
 リィンはコーヒーができる間、キッチンでぼうっと立っているだけでいい。メリルがいた頃はよくメリルの淹れた紅茶を味わっていたのだが。育児に追われ職務に追われ、ここ数年は手軽に飲めるコーヒーばかり飲んでいた。マキアスに言うときっといくつかの文句を言われると思うが、リィンのカフェイン摂取を手軽にしているコーヒーメーカーはマキアスから贈られたものだった。
 メリルを亡くしてからこの家に増えたのは、友人や知人達の善意だ。
 家事の手間を減らすための物であったり、タオルなどの消耗品の類であったり、リオナの玩具であったり。物は様々であったが、すべてリィンとリオナのこれからの為に贈られたものだと理解していた。まわりにも随分と心配をかけていたと思うし、今もかけているのだと思う。
 育児に関しては本当に、実家や周囲の手助けがなければやってこられなかっただろう。若い頃に散々言われた「周りを頼れ」の言葉にここぞとばかりに甘えさせてもらった。
 そのせいかユーシスはいまだにリオナの顔を見ると菓子勧めるし、クロウも小さい頃と同じ扱いをする。父親には話しづらいことはアリサやユウナ達が聞いてくれているようだ、これに関してはリィンがあまり踏み込むべきではないなと、アリサ達から何となくそういう話をしたと聞くだけに留まっている。オーレリアやサラ達にも随分と世話になった。
 周りの人間に恵まれたのだと、リィンは感謝していた。
 この冬を越して春がやってきたら、リオナは士官学院に入学する。
 トールズ士官学院。馴染み深く、思い出深いその場所。Z組の皆と出会い、そしてメリルと出会ったトリスタにリオナが通うというのは感慨深いものだった。
 自分と同じように人生を変えるような出会いがあってほしいと思うが、悪い人間にだけは捕まらないようにと今から口を酸っぱくして言っている。
 職員として出入りしているリィンは学院の生徒を信用しているが、父親としてのリィンはそうはいかない。出会い頭に五十ミラをとっていくような先輩がいるかもしれないし、なによりメリルに似て美しい容姿をしているのだ、何かあったらと思うと心配で心配で仕方がない。
 昔クロウに言われたように、恋人でもできたらどうしようか、とりあえず自分より強いかを確認するべきか。
 親の心子知らず、リオナはこの手の話になると話半分にしか聞かない。また始まったという顔をして、「お父様って本当に心配性」とため息混じりに呟く。

 閑話休題。
 士官学院に入学すればリオナは寮生活、この家にはリィン一人になる。今のような静けさが二年は続くことになるだろう。
 トールズでは平民や貴族といった区分を無くしたことで、貴族生徒の夏の帰省も数年前に無くなっている。自由行動日はあるが、リオナは鉄道に乗ればすぐ帰ってくることができる家より、友人のいる寮や学院ですごす事を優先するだろう。家に帰ってくることは少ないだろうなとリィンは小さくため息をつく。
 離れて暮らすことは心配だ、毎日ARCUSで連絡をして欲しいというのが本音ではあるが。……自分が学生だった頃に家への連絡もあまりせず、夏に帰省もしなかったことを思い出すと、両親やエリゼには随分と心配をかけただろうなと今更ながらに思う。年頃の娘に過干渉かとも考えたが、やはり連絡はこまめに入れるように言わなくては。
 いつのまにか出来上がっていたコーヒーを片手にソファに座り直す。やや遠く、ここ最近は主のいない花瓶の麓、華奢な金枠の写真立てに納まるメリルを眺めた。レックスが撮ったものもあれば、アルティナが撮ったものもある。
 初めて出会った時より大人びた、いまのリィンより若い姿。今となっては、彼女の老いた姿など想像もできず、そして見ることも叶わないが……。

「こういう事も、君に相談できたんだろうな」

 零して、苦い笑いを浮かべる。
 季節は真逆だというのに、葬儀の後の日々を思い出した。クロウの計らいでリオナは家におらず、リィンがひとりこの家にいた、あの時。
 あの時よりもずっとメリルの死を受け入れることができているし、彼女がいないことを理解していると思う。胸の痛みにも、隣が冷たいことにも慣れた。
 姿形はわかる。家に写真もある、瞼を閉じれば表情も仕草も思い出せる。筆跡も覚えているし、書く手の動きさえも覚えている。声だって、帰路で思い出したばかりだ。
 あの日のリィンが思うよりずっと長く、ずっと鮮明に。リィンはメリルを覚えている。
 慌ただしい一日を繰り返して一ヶ月、一年、何年も。
 心に住まう人を忘れまいと足掻いている。

「リオナが君の年齢をこすのも、あっという間かもな」

 死者との時間は縮まらない。
 もう数年も経てばリオナはメリルの年齢を追い越して、いつかリオナの顔貌にそうなっていたかもしれないメリルを見るのだろう。
 リオナ本人がどう思っているかはわからないが、外見だけで言うなら空恐ろしいほどよく似た母娘だった。中身はリィンにもメリルにも似つかない、自分の中の醜い部分を浮かべては似なくてよかったと安心していた。メリルとは、似るほど共にすごさなかったのだと、リィンは思っている。

「生きていたら、なんて」

 色々なことが今とは違っただろうが、考えても仕方がないのだ。たらればの話は与太話よりタチが悪い。軽く頭を振って、コーヒーに口をつけた。ほのかな酸味を味わって目を瞑る。
 美しいまぼろしを見るのだ。
 一人で寝ることに慣れてしまった広いベッド。二本しか歯ブラシの置いていない洗面所。物の位置を把握して、立つことにも慣れたキッチン。かつて処分した靴と同じサイズのものが並ぶようになった玄関。置かれる部屋の変わった美しい鏡台。今も座っている、ひとりぶんの重みで沈むソファ。慣れ親しんだ我が家。
 もうすっかりメリルの気配の薄れたそこで、リィンの脳が何度も何度も彼女の姿を写し出す。
 老いないメリルが、リィンの思い出す声で喋り、笑う。歳を重ねたリィンの隣には、まだメリルのまぼろしがいる。
 美しいまぼろし、その指先が温もりを求めていたように見えた。

「……寒いな」

 夜が深まるにつれ、静寂も寒さも刺すようなものに変わっている。
 寒さに強いとはいえ、万が一教官が風邪をひいては示しがつかないので、ソファの隅に畳まれていたブランケットを手に取った。時計の針がてっぺんで揃ってしまう前にはベッドに入らなければ、明日は天気が良いという話だったから、ベッドのシーツを洗ってしまいたいのだ。なんにせよ、まずは机の上に放り出された問題用紙の空白を埋めなければいけない。
 静かな部屋で再びペンをとる。
 コチコチと秒針の進む音、カリカリとリィンがペンを滑らせる音、本を捲り紙が擦れる音。コーヒーの匂い、乾いていないインクの匂い、リオナの好きな柔軟剤の匂い。
 どこにもメリルはいない。
 リィンの紫の瞳がチラと横を見て、また紙の上に戻る。先程までメリルのことを考えていたからだろうか、柔らかな影を見出そうとしてしまう。当然、隣は空っぽだ。

「メリル」

 幸せが心臓に刺さって抜けない。
 痛くて、まだ脳がまぼろしを見せている。これからもきっと、ずっと。
 この傷は悼み続ける。

そのまぼろしは 悼む愛の傷痕だ



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