のように、先の風景がゆらゆらと揺れている。
 真夏の帝都はとても暑い。
 それはライカ地区にリィンと住み始めてから実感している。シュバルツァー家のあるアパルトメントは比較的風通しの良い通りに位置しているのだが、それでもこの茹だるような暑さの前では熱風の通りが良い家にしかならない。
 帝都の伝統ある紅い街並みも、少しばかり暑苦しく感じる。日傘の下、首筋を伝った汗を拭ってメリルは手に持った地図を見た。
 エリオットも通っているというアルト通りの音楽喫茶にガイウスの絵が飾られたと聞いたので、一目見ようとこうして外に出ているのだ。自分が方向音痴である自覚はあるので、事前に地図は書いてもらっていた。ガイウスが特殊な仕事で忙しい中でも筆をとっていることを嬉しく思う。
 いま家の廊下に飾っている絵は、ガイウスが描いた彼の故郷の風景だ。リィンとリオナとメリルの三人で夏のノルドを訪れた時、たまたま帰っていたガイウスが数枚ある故郷の絵から「記念に」と贈ってくれたのだ。
 シンプルな額縁のなかに広がる空の蒼と草原の緑、吹き渡る風が今にも髪を揺らすのではないかと思うその絵が、メリルは好きだった。
 音楽喫茶に飾られたという絵は一体なにが描かれているのだろうか? 「メリルもきっと好きだと思うよ」というARCUSの向こうのエリオットの言葉を思い出す。ガイウスの絵で嫌いなものがあれば教えて欲しいくらいだ。
 楽しみであることを隠さない表情を日光から隠して、メリルは地図で示す角と違う部分を曲がる。

「あら?」

 数分進んだところで道が違うことに気がつき、慌ててきた道を戻る。帝都は広く、入り組んでいる。メリルが方向音痴であることを抜きにしても迷いやすいに違いない。そう自分を納得させて、今度こそメリルは正しい道を進んだ。
 アルト通りを通過するトラム乗り場を見つけ、安堵の息を吐きながら到着を待つ。
 日曜学校からの帰りだろうか? 通りを子供達が駆けていった。通りには老若男女様々な人々が日々の営みをおくっている。
 黄昏が終息した直後は慌ただしかった帝国も、いまではすっかり平穏を取り戻していた。国内外ともに、何もかもが黄昏や内戦の前のようにとはいかないが。大きな諍いもなく、被害のあった地域は順調に復興が進み。独立したクロスベルとも良好な関係が築けている。
 世の中や自分の周りが平和であることは、メリルにとって喜ばしいことだった。
 黄昏の呪いの引き金を引いてしまったことをいまも悔やんでいるリィンに、もう気にしなくてもよいのだと言える。なにより、純粋に友人知人達が平穏に暮らせるということがメリルは嬉しかった。四大名門の当主であったりラインフォルトの幹部であったりと、みな忙しくはしているが。
 平穏だからこそ、こうして夏の暑さに不満を感じながらも友人の絵を見ようと外出ができるのだ。そう思えばこの暑さも少しは耐えられる気がしてくるというもの。
 ふと、ヴァンクール大通りにアイスキャンディーの屋台があったことを思い出す。溶けてしまうので家へのお土産にはできないが、たまには夫や娘に内緒で食べてしまおうかという気持ちがメリルの中に入道雲のようにもくもくと湧き出る。
 鋼鉄の上を滑る音に顔を上げると、ちょうどトラムが到着しようとスピードを落としていた。白いレースの日傘を畳んで、メリルは直接降る太陽の光に目を細める。
 ギィと少し軋んだ音をたてて開くドアの向こうには、いつもより少し多い乗客の姿。車内は暑いのだろうなと、開かれた車窓を見てメリルは少しだけ眉を下げた。
 ぽつんと一つだけ空いた座席に座り。ゆっくりと動き出したトラムの車窓から帝都を見る。
 見覚えのある、しかし徒歩だと辿り着けないかもしれない光景が熱風と共に流れていく。灰色の髪を揺らす。風は涼む手助けにはあまりなってくれず、メリルは小さくため息をついた。暑さは苦手だ、寒さも得意ではない。
 今は導力ネットの普及のおかげでシュバルツァー家の領地であるユミルを離れていても、リィンは当主としての責務を果たせている――もちろん、ユミルにいるテオ達の助けがあってこそだが。しかしいつかはリィンもユミルで暮らすことになるのかもしれない。
 そうなれば当然、メリルやリオナもついていくだろう。ユミルの冬の寒さにメリルはいまだ慣れずにいるので、もしユミルに住むとなるとその寒さだけが不安だった。寒さに慣れない原因のひとつは、メリルに甘いリィンの存在だろう。過剰なほどの防寒具の大半は、リィンの手によって身につけられているのだから。
 暑さに晒されながら真逆の気温のことを考えていたメリルは、幼い笑い声にはっと思考を浮上させた。
 ころころと鈴が鳴るように、ボールが弾むように、楽しげな笑い。それは乗客のひとりである女性に抱かれた、ちいさな子供の笑い声だ。母親に向かって手をばたつかせながら笑っている様子を見て、メリルは穏やかに笑む。

(リオナにも、あのくらい小さい時期がありましたね)

 リィンと結婚して数年、リオナが生まれて数年。
 自分のお腹の中に新たな命が宿ったのだと聞かされた時は、喜びよりも不安が勝っていた。
 両親を早くに亡くし、それ以降の家庭環境もそれほど良くはなく。メリル自身も人との関わりを蔑ろにしていた。故に『親』というものがよく分からず、その役を自分が果たすことができるのかと酷く不安だったのだ。リィン本人は気にしていないようだったが、出産の前後にはリィンに頼りきりだったし。ルシアやエリゼにも随分と世話になった。、もちろん、Z組の友人達にも。
 リオナが生まれてからは、慌ただしくもとても幸せな毎日が続いている。
 叱ってしまうことももちろんあるのだが、我が子の成長は基本的には喜ばしいもので。そしてそれは、メリルが思うよりもあっという間にすぎていく。己の腕に抱いていたかと思うとひとりで歩いているし、意味をなさない声を上げていたかと思うと自分を母と呼ぶ。
 リィンと同じ紫の瞳が色々なものを見て世界をひろげていくことを、とても幸せに感じるのだ。リオナには自分よりもずっとずっと広い世界を見て欲しかった。両親も自分が生まれた時にこんな気持ちだったのだろうかと我が子の柔らかな頬を撫でる度に考えては、もう確認のしようがないことを考える己に苦笑していた。
 至らないことばかりではあるが、少しずつ、母親というものになれているのだろうか。メリルはまだ不安だったが、リィンやリオナが笑っている間はその不安も遠のいた。
 幸せだ。
 穏やかな日常が続いている。呪いに脅かされることもない、愛する人と愛する我が子と共になんでもない日々を暮らす。絵にかいたような幸せ、綴られた物語のような幸せ。
 次のページを捲れば不幸という真っ黒なインクで塗り潰されてしまうのではないかと時々恐ろしくなってしまうくらい、メリルは幸せだった。

「パパ見て、みっしぃ!」

 外を指さす女の子に倣ってメリルも外を見る、すっかり帝都にも馴染んだみっしぃがゆっくりと遠ざかって行った。もう小指の爪より小さくなった姿に女の子は寂しげな顔をし、そんな彼女の頭を父親が撫でる。
 可愛らしく微笑ましい親子の様子に、メリルは家族が恋しくなった。リィンは分校に仕事へ行っているし、いつもなら家にいるかメリルの傍にいるリオナも、今日はお隣の家に遊びに行ってしまっている。静かな家にひとりでいる寂しさを誤魔化すために外に出てきたというのに、隠していたそれを撫でられてしまった。
 しくしくと滴が溢れそうな心に、ぎゅっと日傘の頭を握りこむ。ずっと一緒ではないなんて当然のことだと自分に言い聞かせた。
 それに、つぎのリィンの休みは家族三人でミシュラムに遊びに行くのことになっている。
 朝早くに起きて自分とリオナの身支度を整えて、家を出る。、ヘイムダル中央駅で買った朝食をクロスベル行きの列車で食べて。ミシュラム行きの遊覧船を――昔よりは平気になったとはいえ水嫌いの自分に余裕があるか分からないが、楽しんで。恋人だった時にも幾度となく足を運んだミシュラムに降り立って。ちょうど夏も盛りなのだし、レイクビーチへ行くのも良いかもしれない。メリルはリオナと一緒に水遊びはしてやれないけれど、リィンが一緒なら安心して遊ばせられる。そうするなら、手前のアーケードでリオナの水着を買おう。MWLは学生が夏季休暇のいまきっと人が多いけれど、その賑やかさがあの場所の非日常感に拍車をかけるに違いない。去年アトラクションとみっしぃの仲間も増えていたし、きっとリオナも喜んでくれるだろう。
 自分以上に娘に振り回されるであろう夫の顔を思い浮かべて、メリルはくすりと笑った。
 少し先の未来を思い浮かべるだけでこんなにも幸せで、寂しさなどどこかへ行ってしまう。心の奥の部分がふわふわと浮き足立って、まるで自分が子供のように今か今かと待ち遠しく思っているのがわかる。このままではメリルもリオナと一緒になってリィンのことを振り回してしまうかもしれない。そうなったらリィンには大人しく諦めてもらうしかないのだけれど。
 はた、と目が合った女の子に漏れた笑いを誤魔化すように微笑んで、車窓に視線をうつした。
 敷かれたレールの上を進んでいくトラムが、メリルの二色の瞳にいつもの帝都の景色を運ぶ。いつの間にか故郷であるバリアハートよりも見慣れた街並み。これから伺います、と取引先に通信をしている男性の声が後ろから聞こえる。なんでもない、帝都の日常。
 リィンは、今日は何時に帰ってくるだろうか。
 朝、帰宅が遅くなるとは言われなかった。いつものように紫色を緩やかに細めて「行ってきます」と家を出ていった背中を思い出す。
 空調のきいた学院で座学を中心に教えているとはいえ、機甲兵訓練も担当しているのだ。水分はしっかり摂っているだろうか? 休み時間にしっかりと休息をとっているだろうか? そもそも、熱い日が続くなか前日の疲れがとれているだろうか?
 一度心配になると止まらない。
 今日の夕食は特に滋養のあるものを使おうと心に決めて、メリルは音楽喫茶の帰りにヴェスタ通りに寄ろうと一日の予定に書き加えた。昔から使っている料理手帳にいくつか夏に調度良いレシピがあったはずだ。頭の中でページを捲る。そう、リィンさんの好きな――……
 ――……
 ―……
 
 ……
 ……まるで絵画のような青空。
 そんな青空にリィンは覚えがある。空を駆ける紅い船、カレイジャスの甲板から見た空も同じように美しく澄んだ青空だった。内戦の時も、黄昏の時も、地上と違い空だけは同じようにそこに在って、リィン達を包んでいた。
 空を鳥が横切り、あぁそろそろ戻らなければとリィンは踵をかえす。友人達に任せきりにしてはいけないのだから。
 この葬儀は。
 

平穏な毎日を願い 平凡な幸せを謳う



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