言えない
満天の星空に見事に丸い月が浮かび、そこをひらりと飛竜が横切る。騎手は下から人に見られているとは思ってもいないのか、楽しそうに飛竜に声をかけていた。仲がよろしくて結構だ。もう少し声が小さくて、警備に支障がなければ、だが。
空から視線をおろし、リーゼッテは小さくため息を吐きながら資料を抱え直す、つい書庫に長居してしまった。
いまでも律儀に貸出禁止の本の扱いを守っているせいで調べ事があるといつもこうだ。リンハルトのように「ああ、持ってきちゃった」くらいの気持ちで拝借できればいいのだが、結局必要な分だけ写しをとって本棚に戻している。他人の家や人間関係を引っ掻きまわすことはできるのに、こんな小さな規則ひとつ破ることはできないのが自分のことながら少々笑える。
帝国軍が詰めているガルグ=マクだが夜は流石に出歩く人間は少なく、通りすがるのも警備の兵士ばかりだ。書庫から自室への道のりは昼であればそんなに時間はかからないが、夜間は施錠されて通れなくなっている道があるぶん遠回りになる。遠回りのついで、気分転換に中庭に立ち寄り人がいないことを確認して、リーゼッテはガゼボに設置された椅子に腰かけた。いまでも師に誘われればささやかな茶会をひらくそこで、ランプを置いて資料に目を通す。
夜の静けさとカンテラの明かり、紙の匂いと緩やかな風。
気分転換のはずだったそれは眠気を呼び寄せるには十分で、あくびをひとつしてからこれではいけないと首を振る。これから部屋に帰らなければいけないのだから。
「リーゼッテ」
突然呼ばれた名前に盛大に肩を揺らして声の方向を向けば、そこにはベレトが立っていた。
カンテラを片手に近寄ってくる姿は五年前に学院の見回りをしていた時と変わらない、変わったとすれば髪と目の色くらいだ。今夜はどうしたのだろう、夜間の警備は黒鷲遊撃隊は関わっておらず、全て帝国軍に任されているはずだ。
あくびで出た涙を引っ込め、テーブルにひろげていた資料をまとめて椅子から立ち上がる……よりも先に、ベレトが外套を外してリーゼッテの肩にかけた。案外簡単に外せるのだなと思いながら体温がうつった黒い布地に指先でそっと触れる。寒いという程ではないが、近頃は随分と涼しくなった。夜となれば尚更で、リーゼッテはありがたく好意を受け取ることにした。
「夜に一人で出歩くのは危ない」
「暗殺者のひとりふたりであればわたしだって抵抗できます。先生は心配しすぎですよ」
「そうではなくて」
そうでないのなら、なんだというのか。
言いにくそうに僅かに眉を寄せたベレトは結局何も言わずにリーゼッテの手を引いて立ち上がらせ、まとめられた資料を手に持った。どうやら強制的に部屋に戻されるようで、それを理解したリーゼッテは自分のカンテラを持って数歩先で立ち止まったベレトの横に並んだ。
ぽつりぽつりと話すベレトに頷きながら石畳を歩く。低すぎない声が静かな夜に心地よく、リーゼッテは少ない言葉を聞き逃さないように己の口を閉じる。時折視線をおくるベレトの明るい緑の髪は夜闇の中で淡く光っているように見え、そのままの意味でも眩しい人だと風に揺れる毛先を眺めた。
中庭をぬけた寮棟の前、やはり人はいない。寝静まっている訳では無いが、皆それぞれの部屋でなにかしているのだろう、二階の窓からはちらほらと明かりが見えた。
外階段を上り二階に上がる。ガルグ=マクを落として五年、ずっと人の出入りがあり、帝国軍に管理されていたそこはベレトが眠る前とさして変わらない。部屋を使う人間が違うとか、素材の経年劣化だとか、そのくらいだ。
エーデルガルトの部屋の隣、リーゼッテの部屋の前でふたりは立ち止まった。五年前も何回かこうして送ってもらったことがあったなと今更思い出しながら、ベレトの持っていた資料の束と交換に黒い外套を渡す。
「わたしは別にひとりで戻れましたけど……一応、ありがとうございました」
頭を下げ、ドアノブに手をかける。
ベレトが同じように手を伸ばし、重なった手にリーゼッテが何故と思った、転瞬。近付いたベレトの顔、唇に触れるなにか、こびりついて離れない微かな戦場の臭い。
眠気が一気に遠ざかり、明瞭になった思考が赤く染った。リーゼッテが陸にあげられた魚のように口をパクパクさせている間に、「おやすみ」と柔く微笑んでベレトは離れていく。
器用に外套をつけ直しながら階段へ向かって遠ざかる背中を見送って、リーゼッテはドアをあけで自室に体を滑り込ませた。夜間であることを思い出しゆっくりと扉を閉め、そのまま扉に背をつけてずるずるとへたり込む。
口付けをされた。
「ふたりのほうが、危ないじゃないですか」
顔を覆った手が頬の熱さを感じ取って、その事にさらにリーゼッテは顔を赤らめた。
ずるい、小さく呟いてから細く長いため息を吐き、いつの間にか床に落としてしまっていた資料を集めて立ち上がる。窓の外では変わらず見事に丸い月が輝き。少し前と同じように、飛竜が横切っていった。ひらりと宙を舞う姿に、自分を翻弄してばかりの人間を少し重ねて、理不尽に恨みがましい視線を送る。
仲がよろしくて結構、なんて。