07

カーラの刷り込み教育がひと段落した時には日完全に沈んでいた。日が沈めば外は寒くなるというので、大人しく船内に引きこもっていることにした。事実、甲板近くに行くと明らかに気温が下がったのを感じた。船内が一番快適だ。
そう言えばなにも食べていないなあと思いはしたが、果たしてどこで食べ物を調達すればいいのやら。一瞬だけ、どこかに食堂があると聞いたことを思い出したが、別段行きたいとは思わなかった。正直、ないならないでいい。


「とりあえず、布団はこれを使ってね。昼間のうちに干しておいたから、気持ち悪くはないはずよ」


そう言ってカーラが分厚いマットとブランケットをよこしてきた。寝る部屋はカーラともう一人いるナースの私室だった。さすがといったところか。壁一面が医学や看護学の書籍で埋まっていた。文字はアルカでも読めた。内容を見て、彼女たちの医療従事者としての知識量やその教養の高さがうかがえた。
空腹もあったが、それ以上に体にたまった疲労感というか。慣れない環境での身体ストレスを何とかしたかった。

「…じゃあ、もう寝てもいいかな」
「だめ」
「え゛」

即答だった。しかも真顔で返されたものだからちょっと焦った。何だ。何が原因で寝かせてもらえないんだ。
少し考えて、思い至ったのは昼間の出来事。

「あ、風呂!お風呂か!お風呂入ってないから!?」
「そうね、お風呂は入らなくちゃね。他は?」

他!?他って寝る前に何をしなくちゃならんのか!肌の手入れ?
ぐるぐると思考を巡らすも、カーラの求める答えが出てきそうにない。焦りが胸中を支配しかけたところで、トントンと扉をたたく音がした。「入っていーいー?」と軽やかな声がして、カーラがいいわよ、と返した。
扉をあけて入ってきたのは、昼間甲板で会った女性、コアラさんだった。

「なぁんにも食べてないって聞いて。食べられそうなの持ってきたよ」

お盆に小さめのキャセロールを乗せている。カーラが興味深そうにそのふたを開けた。するとふわりとチーズの香りが漂ってきた。

「なにそれ?あ、リゾット」
「うん。分けてもらったの」
「私も後で食堂に行こうかしら」
「じゃあ伝えとくね」

短い会話を終え、コアラがこちらをみて顔を綻ばせた。

「ごめんね、なかなかご飯って声掛けられなくって」
「べ、べつ…」

ぎゅるぎゅると腹が空腹を訴えかけた。どう考えても匂いに脳が刺激されたせいだ。

「…に…」

早く寝たい早く寝たい。その思いに反して腹が空腹を訴える。
その場に静寂が訪れた。

「…い、いただきます」

カーラとコアラさんアハハ、と声を上げた。

「食事は健康の基本よ!しっかり食べなきゃ!」
「あ、はい…。あ、ああ…なるほど」

渡されたお盆の上のキャセロールのふたを開けて、思わず納得する。不思議そうに首をかしげるコアラさんに、苦笑して言う。

「今しがたカーラに怒られかけてたので。ご飯を食べずに寝ようとしたから」
「ああ、なるほど。カーラって病人相手にはいつも本気だもんね」
「最高の対応をしているつもりよ」
「いつもありがとう」

漂う朗らかな空気に、仲がいいな、と思う。革命を謳う人達だというから、もっと殺伐としたものを想像していたが、思いのほか互いが互いにフレンドリーだ。

「まだしばらくは食堂も動いてるみたいだから、何かあれば行けばいいと思うよ。場所はカーラが知ってるわ」

それじゃあ、と立ち去るコアラさんの背中に、頭を下げた。



食堂を訪ねたのは夜も更けてきた頃合いだ。カーラにつられて訪れた食堂には人はまばらで、厨房に数人の人がいるようだった。
洗った皿を返すと思いのほか喜ばれた。まさか洗って返されるとは思わなかったらしい。
厨房はやっと食後の片付けが済んだという雰囲気だったが、ところどころでは新たに食材を出し始めている者もいる。不思議に思ってそれを見ていれば、明日の仕込みだと言う。なるほど、シェフというものも大変そうだ。
ふうん、と相槌を打てたのはそれまでだった。明日の朝食に使うんだと見せられた何やら大きな桶から一つ取り出したモノに、思わず硬直した。

「…うん?どうしたアルカちゃん?」
「え、どう、どうって…え、それ…え」
「え?ちょ、なんでそんなに引いてんの!?」

言ってシェフが一歩近寄ってきたものだから、思わず叫んだ。

「ぎゃあああ!!ちょ、近寄せないでぇえええ!!」
「へぇえい!?え!?何が!?」
「何がって何が!?なにそのエイリアンみたいな軟体物質!」
「な、なんた…え。もしかして魚のこと言ってる?」
「サカッ、サカナッ!?」

声がひっくり返った気がする。シェフの持つぬめりとした光沢と異臭を放つグロテスクなナマモノにしか意識がいかない。見た目から推測するに、鉄のような硬さのある皮膚はなぜかぬめりけを帯び、異様なテカリを見せている。目に該当する部分はやけに小さく、しかし死してなお目玉が飛び出してきそうな様相を呈している。
まるでエイリアンのようなそれに悲鳴を上げるのも無理はない。それを素手で持つシェフに、やはり彼も徒人では無いのだと意識せざるをえない。

「サカナってなに!」
「待って、魚を知らないだと…」
「しししし知らない!!そんなの知らないし知りたくない!」
「あ、待て帰るな!」

背を向けてカーラの部屋に帰ろうとしたところ、シェフに呼び止められた。正直無視しようとした。あと、明日朝からアレが食卓に並ぶのなら、絶対に食べない。朝ごはんなどいらぬ。
しかし、無視したところでカーラが無視させなかった。思いっきりカーラに襟首をつかまれた。

「ほら、台所の主が呼んでるわよ」
「待ってむり。アレは本当にむり」
「ま、まあまあ…魚についておしえ」
「いやあああああああ!!近寄せないでぇええええええ」
「悪かった!!」

思いっきり叫んだらさすがのシェフも身を引いた。少ないとは言え人気はある。騒ぎになんだなんだと人の視線が明らかに向いていたが、気にするところはそこじゃない。むしろ、状況が悪化した。
「どうかしたんですか」とシェフの後ろから顔をのぞかせた別のシェフの手に持つ、赤い臓腑のようなもの。しかもうごめいているからもう全身に鳥肌がたった。

「ひぃいいい!!」
「え、なんですかこの女」
「あーー…」

シェフが遠い目をした。
噂の記憶喪失の女だ。言うのは簡単だが、さて、この魚をも知らない理由を説明するに足るだろうか。

「記憶喪失なのよ。常識も覚えてないから気を付けてね」
「カーラさすがにそれはひどい!」
「本当のことでしょう」

カーラがさらっとディスってきたのにはさすがに反論した。

「まあでも魚が怖いって変ですよね、常識的に考えて」
「常識…」

つまり常識の範囲外に自分はいると。
では彼らは常識的にこれを摂取しているというのか。考えただけでもおぞましい。
全身に立った鳥肌を摩って落ち着けていると、あっとカーラが声を漏らした。

「…海、初めて見たんだっけ…?」
「………。ま…まさか…それ、海の生物だとか言わないよね…!?」
「うん、大正解というかなんというか」
「早く陸に逃げよう」

顔が本気だった。
この船、普通に魚人族ものってるから、注意しないとやばいかもしれない。いや、割とマジで。カーラは心から心配した。

「ちなみに、この系統の人種もいるから気を付けてね…?」
「…人種?」
「ま、まあまあ…それは置いといて…。とりあえずこれ、ちゃんとした食材…ええと、貴重なタンパク源だから重宝してるんだ」
「えっ」

ちょっとカッコつけようと、シェフが少し専門用語を出してみたら思いのほか食いつきがよかった。
つまり栄養価がとっても高いんだよ、と。教えてあげようとしたわけだ。

「これが?タンパク質の塊?」
「(お?)おう、必須アミノ酸はほぼ含まれてると思ってくれていい」
「ええ…?でも、たべないとやばいわけじゃあるまいし」
「いや、普通に食べないとやばいレベル。普通に肉より栄養分多いし」
「えっ、何それプロテイン剤の代わりに食べてる感じ?」
「は、いいい?」

ちょ、待って待って待って。ぷ、プロテイン剤?なんで急にプロテイン剤が出てきた??

「えーと…プロテイン剤?そんなの食べてるの?」
「えっ…プロテイン剤ないと、栄養取れなくない…?」
「「………」」

やばい、今、凄い、常識の食い違いが出た気がする。