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再び夫の手記

 この頃の幸福な生活を思うと夢のようだ。去年の今頃は私は死生の間を彷徨していたのだ。裏長屋のジメジメした一室で大熱に悩んでいたのだ。妻は大病の私と、私が奇妙な出来事から抱いて帰って来た赤ン坊(其の赤ン坊は今はもう歩くようになって、現に今之を書いている私の傍で、せっせと悪戯をしている)との間に立って、あらゆる辛酸を嘗めていた。そこへ父が飛び込んで来たのだった。
 妻は父が這入って来た時にはひどく驚いたそうだ。父が赤ン坊を抱き上げてあやした時には何が何だか分らなかったそうだ。
 赤ン坊は父の子だったんだ。私の妹だったんだ。
 父は私が家出した後に奉公に来た小間使と恋に陥ちた。独身生活を永くやった上、たった一人の息子に背かれた父は五十を越した身で始めてほんとうの恋を味った。
 その女は間もなく子供を生んだ。それが私の見た赤ン坊のお母さんだった。赤ン坊のお母さんは以前に一度私の宅へ奉公に来た事があるそうで、私をよく見知っていた。あの日自動車に乗り悩んでいた時に、親切に赤ン坊を取って呉れた青年を一眼見ると、それが私だったので、あっと思ううちに自動車に乗り損って終った。次の自動車が中々来なかったのが間違いの元だった。彼女は気が気でないので、電車に乗った。その電車が故障を起したので、乗替場所まで歩いたりしていたので、大へん暇取った。そのうちに私は父を見つけて(父は彼女と赤ン坊を待っていたのだった。彼女とは別居していたので、時折打合して買物などを一緒にした)、外へ出て終ったので、彼女の来た頃には私は居なかった。父と彼女は私を探したけれども、無論見つからなかった。
 父は赤ン坊が他人ならぬ私の手に渡ったので、いくらかは安心していた。そして父はこの赤ン坊の事件を警察の手に出す事を好まなかった。父は久しい以前から、もう私を許しているのだった。父は私が帰りさえすれば、いつでも抱き迎えたのだった。それで充分手を尽して私の行衛を探していたのだったが。今度は同時に赤ン坊の行衛も突留める事が出来るのだから、赤ン坊の事は隠して、私の捜索のみを、事新しく警察に願い出たり、私立探偵社を煩わしたりして、一生懸命に手を尽したのであった。
 然し十数日の捜索が無効に終ったので、父はとうとう、母親をある探偵社にやって、赤ン坊の事を依頼さした。それが偶然私の妻が頼みに行った所だった為めに、すぐ解決する事が出来た。父は私の窮状と私の妻の貞節を聞いて涙を流した。そうして私達の隠家たる裏長屋に飛び込んで来たのだった。
 それから、父も私も妻も赤ン坊も赤ン坊の母親もみんな幸福だった。赤ン坊は私達を幸福に導いて呉れた天使だった。
 妹はみんなから可愛がられている。可愛がらずに居られるものか。でも、お前は私に似ているので嫂さんを心配さしたんだよ。
(「探偵文藝」一九二六年四月号)