肺呼吸の不得手な君へ



※ちょっとシリアス

月が怖いと、名前さんは言った。たまにそういう人はいるらしいが、おれの周りの人間は月を普通に綺麗だと思うか、それかそんな情緒溢れる感性を持たないようなバカばかりなので、名前さんが初めてだった。名前さん曰く、大きな月ほど怖いらしい。帰りがたまたま一緒になって、すっかり日が落ちた道をだらだらと歩く。まあ、実はたまたまじゃなくて、待ってたんだけどさ。ぽつりぽつりとくだらない話をして歩いていたら、ふと上を見上げた名前さんが、「月ってこわいよね」と言ったのだ。

「月って明るいだけのイメージしかなかったわ」
「綺麗だとは思わないの?」
「あ、なんだっけ。『月が綺麗ですね』か」
「『死んでもいいわ』」
「え?」
「あれ、知らない?勉強不足?」

ほんの少しの期待を混ぜた、昔の偉人が創り出した言葉。おれの言葉に対して名前さんは、同じそれで返してきた。驚いて名前さんを見ると、言葉の意味が分からなかったと思ったのか、唇を尖らせてそっぽを向いた。「それでね、月のことなんだけど」と話し始めた名前さんは、この話題を終わらせる気らしい。おれはこの思いを伝える絶好のチャンスを見事に逃したと歯噛みした。

「綺麗だとは思うんだよ。でも星の方がすき」
「そんな変わんなくねえ?」
「全然ちがうでしょ」

しばらくけらけら笑ったあと、沈黙が訪れる。名前さんといると少し緊張するから口の中が渇く。ちょっとだけ空いている距離を詰めたいと、いつも思う。手持ち無沙汰にポケットに突っ込んだ手でその色白の小さな手を攫ってしまいたい。歳の差なんて気にしたくないのに、名前さんが歳の割に大人びているせいで実感させられる。確か諏訪さんと同い歳だっけな。同じ歳でもこうも違うのは人間性とか育った環境のせいだろうか。

「私さ、」

沈黙を破ったのは名前さんだった。

「前の近界民侵攻の時にさ、家族が近界民に殺されちゃって。それから数日、ずっと夜は一人で月を見てぼうっとしてたの。朝起きたら、全部夢でありますようにって」
「…あー、名前さん一人暮らしだっけか」
「そうそう。でね、月見ると、なんだか寂しくて怖くなっちゃって」

この時、おれは生まれて初めて月を怖いと思った。名前さんが語った内容は、まあこう言えば批判されてしまうかもしれないが、よくあることだ。話の内容にあてられたわけではない。ただ、月明かりが照らす名前さんは、色白の肌がより一層白く見え、とても美しく儚いものに見えたのだ。今にも消えてしまいそうな、不安定なもの。そんなことはないと分かっていながらも、寂しそうに微笑む横顔を見ると焦燥感に駆られた。おれは思わず、ポケットから手を出して名前さんの手を取った。驚いた名前さんの顔を真っ直ぐに見つめて矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。

「名前さん、月の大きい日はおれを呼んで。すぐ行くから。怖くなったら、怖くなくなるまでおれがそばにいる。だから、」

いなくならないで。
情けない言葉は、喉の奥で止まった。ここまで言ってしまってからでは遅いかもしれないが、男としての矜持がそうさせたのか、情けなさを露呈するのは躊躇われた。
名前さんの手がおれの手を握り返す。名前さんの手は、あたたかい。

「出水くん、ありがとう。でも、呼んだらすぐは無理じゃないかな」
「…揚げ足とんなよ、も〜」
「うそうそ。すぐ来て欲しいし、今日は怖くなくなるまで居てほしいよ」

ワガママ聞いてくれる?首を傾げてずるい顔をする名前さんからは、先程までの不安定な儚さは感じられない。でも、月が綺麗なたび、大きい月が出るたび、この人はまた寂しそうに笑うのだろう。

「名前さん、おれ、知ってるよ」
「ん?なにを?」
「『死んでもいいわ』の意味」

驚いた顔をする名前さんが言葉を紡ぐ前に、勢いに任せて抱きしめた。あたたかい。ただそれだけのことに安堵する。

「…出水くん」
「うん」
「出水くんは、いなくならないでね」

おれが言えなかった言葉をいとも簡単に吐き出した名前さんは、少しだけ泣いているような気がしたけど、おれは気付かないふりをした。大人びて見えるけど、普段気丈に振る舞っていだけなのかもしれない。おれの腕の中の名前さんはボーダーでもなんでもないただのか弱い女だった。この人がどうか、もう月夜にひとりで泣かないように。無理に寂しく笑わないように。願いを込めて抱きしめる腕に力を込める。人ひとりの力なんてたかが知れてるけど、今はこれだけで充分に繋ぎ止めておける気がした。