策士

 何度見ても変わらないメッセージに、名前は先ほどよりも更に大きなため息を吐いた。すると彼女の目の前に座っていた硝子が「もうさ」と続ける。

「やめたら?」
「何を」
「付き合うの」
「………うーん」

 このやりとりからおそらく名前は何度もこういう状況に陥っていて、そして何度もこういう話を硝子にしているのだろう。硝子の方は少し呆れたような様子であった。

「けどさあ」
「名前そう言っていっつも許して、また繰り返してってエンドレスじゃん」
「う〜〜〜〜〜ん」

 そう言いつつも名前はスマホの画面を確認していた。そしてやはり納得のいかないメッセージを見て唸り声を上げる。

「名前どうしたの?」
「すっげえ声聞こえてきてたけど」

 そこに新たにやってきたのは傑と悟であった。名前と硝子がちょうど四人掛けのテーブルに対面で座っていたので、硝子の隣に悟、名前の隣に傑とそれぞれが掛けた。彼らの登場に正直救われたと思ったのは硝子で、むしろ面倒なことになったと思ったのは名前である。

「つまりまた浮気されて、また同じような言い訳述べて、言葉では愛してるとかほざいてるってこと?で、そのクズと別れ切れないと」
「クズはお前だ五条悟」
「何でフルネーム。つか俺浮気とか絶対しねえし」
「いやお前はするだろ。むしろしてろよ」
「硝子、こいつ殴っていい?」
「殴って目覚まさせてやって」

 気分がどん底にまで落ちきっている名前にとってこのように徹底攻撃してくる五条悟は面倒極まりなかった。どうせなら優しく慰めてくれる傑だけ来てくれた方がまだマシだと思う名前だが、この面倒くさい悟ですら真っ当なことを言っているので、名前は更に撃沈してしまう。

「まあまあ、二人とも。それじゃあ名前が可哀想じゃないか」
「毎度この手の話聞く身にもなってよ」
「そうだぞ。つか名前の見る目がねえんだよ」
「悟マジで死ね」
「生きる!!」
「うるさっ!声のボリュームバグってんの?」

 そう言って悪態をついた名前だったが本調子でないのは明らかだった。彼らのやりとりの通り、名前は他校の生徒と付き合っているが、その男はもう何度も浮気をしては名前の信頼を確実に失っている。硝子曰くクズである悟にクズ呼ばわりされてしまうほど、名前の周囲の人間からも否定されてしまっていた。誰が見ても別れたほうがいい、と思われるその相手に執着する名前にも、それなりの言い分はあったのだ。

「でも本当に優しいんだよ」
「だからそれ浮気する奴の典型じゃん」
「つか顔かっこいいの?俺より」
「何で基準が悟なんだ?」
「じゃあ俺と傑」
「悟と傑は系統が違うくない?」
「まあどっちも柄悪いことに違いはないけどね」
「硝子マジ許さん」

 悟と硝子の言い合いが始まりかけたところで、名前は再びため息をつく。

「私だって、分かってるよ。別れた方がいいってことくらい。でもさ、もう中学の頃から付き合ってるし、別れてしまった後がなんか怖くて」

 おそらく今まで言ってこなかった名前の本音に、誰よりも熱心に耳を傾けていたのは傑だった。

「それは多分名前の中で彼が当たり前になってるからだろうね」
「当たり、前…」
「そう。私達が息をするのが当たり前なのと同じだ。逆に言うとそれくらい名前にとって必要不可欠なものになってしまってるんだ」
「そうなのかなぁ…」

 傑の言葉に名前はこれまでのことをじっくり考えることができた。告白してきたのは向こうだった。特別好きなわけではなかったけど、単純に他人から好意を持たれて嬉しかったのと、自分が誰かの彼女という存在になれたことに優越感を得ていた。最初はそういう自分善がりな理由だった。
 だが彼と一緒に過ごす時間が増えてく度、名前の中に愛しいという感情が芽生えていった。だからこそ、彼が他の女子と話していると妬けてきたり、彼の喜んだ顔が見たくて色々と尽くすこともあった。なのに、彼は名前を何度も裏切った。

「最初は向こうの方が好き好き言ってきて構ってちゃんだったのに、今じゃ逆になってんの。多分そういうのも彼にとって当たり前になりすぎてんだろうね」

 先ほどとは打って変わって、急にしおらしくなった名前に、硝子も悟もふざけた態度ではなくなった。色んな思い出が走馬灯のように駆け巡っていた名前は俯く。その目には涙が溜まっていた。

「こんなに想ってくれる人がいるのに、馬鹿な奴だな」

 そう言って名前の下がった頭を撫でたのは傑だった。その言葉の後に、鼻水を啜る音がしたので硝子たちは静かに黙り込んでいた。それから少しすると悟と硝子はアイコンタクトを取り、静かにその場から去っていった。

 傑はこの好機を逃すつもりはなかった。

「なあ名前」
「……ん」
「私にしてみないか?」
「………ん!?」

 二人きりの状況で唐突に言われた言葉に、名前は思い切り顔を上げた。その目からはそれ以上の涙が出ることはなかった。
 傑は名前の焦ったような顔とは違い、涼しい顔をしていた。

「な、に?傑、今なんて」
「だから名前のことを当たり前のように思ってひどいことをするような奴なんかやめて、私にしないか、と言ったんだ」
「いや、え?なんで?なんで傑?」

 未だ混乱する名前は確かにいつも自身が彼氏のことで悩んでいると、硝子や悟のように彼氏を貶したり、自身を責めることなく、優しく共感してくれたのは傑だけだったと思い返す。
 だが、それはただ傑がそういう優しい人間だからだろうと思っていた。

「まさか私が今まで友達として、名前の悩みを聞いていたとでも?」
「…う、うん、傑は悟とは違って優しいからって…」
「ふうん、そうか」

 あまり面白くなさそうな返事をする傑は、名前の大きく見開く瞳を見て、彼女の柔らかい髪を触り、そして甘い香りを堪能しながら、こう告げた。

「私は誰かれ構わず、親身に相談にのるほど出来た人間ではないよ」

 突然言われた言葉に理解が追いつかない名前が目を泳がせていると、傑はそれを実に愛おしく見ていた。

「すぐ、る…?」
「名前だから相談にのっていたんだ」
「あの、…え?」
「…彼ももう何度もしてるんだ、名前だって仕返してやればいい」
「え、え…傑?」

 そう言って近付いてくる傑に、名前は身動きが取れなくなってしまっていた。それはさっきまであんなに彼氏への想いを募らせていたくせに、傑の気持ちを知った瞬間に、その想いたちがまるで作り物のように感じてしまっていたからだ。
 互いの吐息がかかるほどの近さ。おそらく名前と傑は初めてこんなに接近しただろう。今名前の頭の中は傑でいっぱいだった。そして傑もまた名前が今自分のことばかりを考えているだろう、という優越感に浸っていた。
 もうこのまま当たってしまう、と目を瞑ったのは名前だった。

「…されると思った?」

 その言葉は確かに耳元で艶やかに囁かれた。思いもよらない言葉に名前は目を開く。そしてほんの少しだけ期待をしてしまった、と気付いたとき、名前はかあっと顔が熱くなるのが分かった。その様子をいつもの穏やかで優しい顔ではなく、少し高圧的な笑みを浮かべて名前を見下ろしていた。
 初めて見る傑の表情に、名前の鼓動が加速する。確信犯の傑は、いつもの表情に戻った。

「少しは意識してくれたかい?」
「は、はい…っ」

 名前はもう傑の顔を直視できなくなっていた。自分の顔が真っ赤になっているのがよく分かる。
 そんな様子に傑はご満悦の様子であった。その笑顔はきっと喉から手が出るほど欲しかったものが、もうすぐそこまでやってきていることを表現している。


list top