少年は、十六歳で知る

 俺は、不用意に大きな声を出す人間が嫌いだ。

「お、角名ー!おはよー」
「……声でかい、うるさい」
「いやいや、おはようにはおはようでしょ」

 教室に入ってくるなり、瞬間的に視界に入ったそいつは、それまで治と話していたにも関わらず、教室に響き渡るほどの大きな声を出した。おかげで俺が遅刻ギリギリだったのがバレてしまうし、クラス中からいらん視線を浴びる羽目となった。治の前の席を借りて駄弁っていた苗字は、今日も今日とて溌剌としてて、やかましい限りだった。
 同時に目が合った治が「おはようさん」としっとり返すので、俺はそうそうこのくらいがちょうどいいんだよな、と思いながら「おはよう」と返す。

「はあ?何で治には返して私には返してくれないの?」
「朝からけたたましく声出すから」
「けた、たましい…ひっど」
「まあ確かに名前はいっつも声でかいもんなあ」

 そんな呑気な話をしていると予鈴がなった。
 苗字は自分の席に戻るために立ち上がる。ふわりと手前にジャンプをした為に、スカートが反動で捲れ上がり、不可抗力で下着の際どいラインまで見えてしまった。俺はすぐに視線を逸らす。つーか、短パンくらい履いとけよ、とか。そもそもスカート丈が短すぎるんだよ、とか。もう少し警戒心もてよ、男はみんな狼なんだぞ、とか。思考がとにかくめちゃくちゃになっていた。
 俺の思考がぐるぐると渦を巻いている間に、彼女は自分の席に戻っていた。先に戻っても相変わらず周囲のクラスメイトと賑やかに会話をしている。笑顔を絶やさない苗字は、俺たちのクラスいや学年でも結構上位のカーストにいる人間だ。何故なら俺は去年違うクラスだったのに、その存在を知っていたから。

「なあ」

 上位のカーストの人間というと、どうしてもヤンキー気質な人間をイメージしてしまっていた俺は、今年苗字と同じクラスになり、その印象が全然違うことを知った。
 やかましいし、うるさいし、けたたましい。けれど、それがどこか不快感を抱くものではなく、そのうち苗字の声や笑い声が心地良いものとなり、日常の一部となっていた。おそらくこのクラスの全員がそうだろう。
 俺はそれが不思議だった。

「なあって」
「あ、ごめん」

 治から呼ばれていたことに全く気付かなかった。
 列の真ん中あたりに俺たちが隣同士でいると、後は迷惑だろうな、と思っていると、治がかなり口元を緩ませた。

「真っ白、やったな」
「…は?」

 口元に敢えて手を添えているのは、あまり大っぴらに言わない方がいいという治なりの気遣いだろうが、むしろそんな気を遣えるのであれば、それは言わないでやった方がいいのではないだろうか。

「名前のパンツ」
「治そういうこと言うやつだっけ?侑じゃあるまいし」
「いやぁ白いもん見たらおにぎり食べたなったわ〜って話」
「たまにお前のことが本当によく分からない」

 そもそも治の位置からは見えたのか。白か、意外だな。

「へぇ、角名って結構ムッツリやんな」

 そう言われて秒速で治を見る。俺のあまりの速さに「うわ」とか言っていたが、それよりもなによりも俺今声に出していたのか?そしてそれを治に聞かれていた?詰んだな。
 へらりと嫌な顔を作る治。確かに少しおかしなところはあるが、テレビにも出てるしそもそも双子で目立つし、侑よりは害が少ない。女子人気も高く、カーストでは自分の意思に反して上位に加わっている。それなりにモテているし、彼女がいるとかいないとかの話も部活の時に聞いている。……彼女、ねぇ。
 元々そういうのに興味はないし、俺はツインズのようにモテたりはしない。告白なんてされたことないし、バレンタインも角名もついでにやるよ、みたいな感覚でもらうばかりだ。
 まあでも、今はとりあえず部活もあるし、彼女できたところで、付き合ったりの両立って難しいよな。一緒に帰ったり、毎日連絡取り合ったり、たまのオフの一日はきっとデートをせがまれる。そういうの考えると億劫にはなるわけだけども、たまに、ごくたまに、無条件で受け入れてくれる存在はあってほしいとは思う。優しく名前を呼んでくれて、何も聞かずに受け入れてくれるような、そういう存在はいいな、って。
 ……彼女、ねぇ。

 あれ。
 俺はどうしてこのタイミングで、苗字のことを見ているんだろうか。
 そして、俺はこの時、苗字と治が互いを下の名前で呼び合っていることを、思い出した。
 まあそれは別に全然良いんだけど。


***


 放課後、部室へ向かっている途中、ちょうど教室を出るタイミングが同じだった侑と一緒に部室まで向かう。兄弟揃うとやたらうるさいな、と思い、改めて煩い人間は嫌いだと思った。

「おーい、ツインズと角名ぁー!」

 廊下の向こう側から叫ぶような声を出したのは、やはり苗字だった。あまりの声のデカさに、まだホームルーム中だったクラスの先生がわざわざ廊下に出てきて、叱っていた。苗字は「ごめんなさーい」と謝りながら逃げるようにこちらにやって来た。

「あいつほんま元気っ子やな」
「同い年と思えんくらいはしゃぎよるもんな」

 侑と治は言葉だけではつっけんどんな物言いだが、表情を見れば分かる。彼女の無邪気さに愛らしさをしっかり感じている。その証拠に二人とも顔が穏やかだった。途中で大声を出したこと以外にも「走るなー!」と怒られ、こっちに来るのにもやっとこさといった感じだった。

「お前もうちょいボリューム考えぇや」
「思ったより声出てたね、こりゃびっくり」
「何やねんそれ」
「なんか用やったんか?」
「ああ、そうそう」

 そう言って苗字は鞄を手前に持ってきて中を漁る。女子も結構鞄の斜め掛けするんだ。あれ、これなんか侑と治がなんか言ってたよな。なんだったっけな。
 その頃には苗字が鞄からプリントを取り出すと、そのまままた鞄を後ろにやった。夏服に切り替わっていた為、冬服よりも格段に薄くなった制服のカッターシャツは、鞄のベルトで分断されよりその膨らみが強調されていた。あ、思い出した、パイスラッシュだ。

「これこの前の部活動会議の写し。私多くもらいすぎちゃって、いらない?」

 おそらく北さんから確実にもらえるものであろうが、ツインズは案外苗字に弱い。無くても問題はないはずなのに、二人とも上機嫌に貰っている。

「はい、侑」
「おおきに」
「治も」
「どーも」

 そうか。治も下の名前呼びなら、侑も同じ扱いになるのか。
 ふーん。

「はい、角名」
「…これ多分後で部長にもらえるやつだよね?」

 やっぱり俺は角名呼びか。当たり前だよな。そう思うと、何故か俺は言わなくてもいいことをつい口走ってしまった。まるで、当て付けのように。

「え、あ、そうなの?さっき治と話してた時、もらってないって言ってたから、男バレプリントなかったのかと思って…」

 俺は今子犬でも見ているのだろうか。さっきまでは耳を立てて、尻尾を張っていたのが、あからさまにしょぼくれている。せっかくの可愛い耳が垂れてしまい、尻尾もしょんぼりとしているのだ。まずい、言い方きつかった。

「悪いなぁ、名前。こいつ一言余計よな」
「余計言うな」
「何か角名機嫌悪ない?」
「悪くない」
「え、角名何そんなに怒ってんの?」
「だから怒ってない」

 双子がいると小さなことでも大きく発展しやすい。もはや何故俺が怒ったことになっているのか分からない。怒っていないはずなのに、話がここまで発展すると逆に苛立ちは覚えてしまう。
 俺先行く、と言って離れる。心が騒ついてきた。こういうのはよく分からないが、とにかく双子と苗字のダブルパンチ、いやこれはトリプルパンチは結構キツイ。後ろから「コラ機嫌の悪い角名くん待ちなはれ」と侑が茶化してくる。普段は何とも思わないが、今はクソウザい。何でだ?

「待ってよ、角名」

 角名角名うるさいな。何で双子は舌の名前でフランクに呼び合って、俺は苗字っていう微妙な距離感になってるわけ。
 ……いや、それとこれとは関係ないか。そもそも俺なんでこんな小さいことに固執してるんだ。

「ねえ、角名がこの前言ってたさ、っ!」
「おい!」

 後ろから駆け足が聞こえはしていたが、言葉の途中でその足音に異変を感じた。振り返ると苗字はどこで躓いたのか体勢を崩していた。俺は咄嗟に腕を掴んで、真後ろに倒れそうだった苗字の体をぐいっと引き上げる。
 ほっそい腕、軽い体。いとも簡単に俺の元に無事に立った苗字。見つめられて、思わずじっと見返してしまう。
 透き通るような肌だった。色白で頬はほんのりと桜色。唇なんてつやつやで柔らかそうで、少しリップクリームなんかを塗っているのだろうか、鮮やかに色付いているし、綺麗な黒髪も肌の色とコントラストになっていた。
 そういう細やかなところまでを認識すると、俺はようやく苗字名前というクラスメイトを女子として意識してしまった。
 そう思うと同時に、俺の視線は自然と先ほど中々出てこなかったワードのもとへ。そしてそのくっきりとした膨らみがより近くにきたこと、意外と大きいな、と思ってしまったこと、そして何より今朝の治の「真っ白」発言。

「あ、あの、ありが、と」
「……大丈夫なら良かった、です」

 突然敬語を口走ってしまうくらいに、俺の頭は大混乱を起こしていた。しかし、そんな中、俺は色々とまずい、ということにすぐ気付いた。
 俺の視線の向こうに、双子がいる。こちらを何か言いたげな顔で見ている。顔がニヤけている。危険だ。

「じゃあ俺部活行くから」

 厄介な双子が絡んでくる前に、さっさとこの状況を抜け出さなければ。ずっと掴んでいた苗字のかぼそく柔らかい腕を離し、くるりと進行方向へ向き直って歩き出す。

「角名、本当にありがと!やっぱカッコイイね」

 やめろ、バカ。そんなどストレートに言うな。特に双子の前で言うな。やめろ。恥ずかしい。恥ずかしいくせに、めちゃくちゃ心臓がうるさいのは何でだ?
 カッコイイとか言われたことなくて、どんな反応すればいいのか分からず、気付けば俺はそのまま無視するような形で去ってしまった。後から侑と治が苗字と話しているのが聞こえたが、俺は正直とにかく早く人目の少ないところに逃げ込みたかった。
 使用頻度が少なめの隅にあるトイレに駆け込む。ここへは一つ角を曲がらないと入れないので、双子からは見えていない。薄暗くてひんやりとしていたトイレで、一目散に手洗い場に向かい、蛇口を捻ると勢いよく水が飛び出す。手を冷やすと、しぶきが散る。しばらく意味もなく手を洗ったが、俺はすぐに顔をバシャバシャと洗いまくった。
 何度か水で濯ぐと気持ちが落ち着いてきた。

「はあぁ〜〜〜〜〜〜」

 盛大なため息は、小さなトイレにこだました。手をついて少し前屈みになって、もう一度深くため息を吐く。
 片方の手を握りしめる。水で冷えたにも関わらず、苗字の腕を掴んだ感覚はしっかりと残っていた。

 俺は大きな声を出す人間が嫌いだ。そう思っていたはずだった。苗字のことも声の大きいクラスメイトとしか認識していなかったはずなのに。
 そのはずだったのに。
 近くで見た苗字の表情がこびりついて離れない。ほんのりと桜色に染まった頬で、俺を見上げてくるあの表情が焼き付いてしまった。そして、思い出すたびに、心臓がうるさいのだ。

 そうかこれが、恋なのか。


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