お兄ちゃんに任せなさい
何度目か分からないため息を吐いた。すると私を阻むように立った彼女らは「何ため息ついてんだよ」とこんなちっぽけなことにすら突っ掛かってきたのだ。クソ怠い。
「何が気に食わないか知らないけど、私に突っ掛かってくんのやめてくれない?ウザイ」
「テメェのその存在自体が気に食わねえんだよ。家がご立派らしいな」
「けどお前んち呪われてんだろ?」
下品な笑みを浮かべる彼女たちは、盛大な勘違いをしているが、もう訂正することも面倒臭かった。私の家は呪われているんじゃない。だがそんなのコイツらに言ったって多分無駄。馬鹿には何言ったって無駄なのだ。
「お家が呪われてんならさ、お前に何かあったって、呪われてました、で済まされるよな?」
ふう、と臭い白煙を顔にかけられる。その瞬間、私を囲うようにいた彼女らのうち二人が私を羽交い締めにして抑え込んだ。
小さい頃から幽霊が見えていた。それは兄も同じだった。でも兄は六眼とかいうのを持って生まれたとんでもない存在だったようで、家族も親戚もみんな兄を持て囃した。私は術式も備わっていたが、兄のそれと比べると足元にも及ばなかったから、私は両親からあまり良い顔をされなかった。けど兄は違う。幼い頃から家族親戚一同の絶賛を浴び、将来を期待され、今まさにそれに応えるべく私とは違う呪術の専門学校へ行った。
私はそんな兄と比較されたくなくて、普通の学校を選んだ。そして高校に進学すると同時に家出をした。金銭面は兄とその友達が援助してくれた。
『お前は自由に生きていいよ』
そう言ってくれた兄の言葉を無駄にしたくなかった。
普通の高校で、普通の学校生活を送れるものだと思っていた。
どうやら五条という一族の影響力は大きいらしい。入学した当初から「幽霊が見える怖い生徒」と後ろ指をさされた。最悪だと思った。でもようやく抜け出した地獄に再び戻るなんて選択肢はなかった。だって、そんなことをすれば兄の言葉を、兄の気持ちを踏みにじることになってしまう。
だからずっと、私はここで慎ましく過ごして、卒業して、普通の人間の人生を歩んでいこうと誓っていた。
その白煙がだんだんこちらに近づいて来る。気色悪く笑う女の顔は、屋敷でよく見る奴らと同じ顔をしていた。
気持ちが悪い。その目で私を見るな。
こんな可愛げのない性格だから、いつも強がっていた。当然、私が学校でこんな仕打ちを受けているなんてこと、兄には言えなかった。制服に落書きをされて着れなくなったから新しいのを買うにしてもお金がいる。その説明をするのに何度嘘を重ねたことか。兄はあっけらかんと「あっそう。女子高生って大変なんだね」とお金を渡してくれた。そのお金を私はいつもドブにでも捨てるかのように使っていたのだ。そんなことを何度も繰り返していくうちに、私は知ってしまった。私のような落ちぶれた奴には、生きる場所がどこにもない。居場所なんてない。
私にはどこにも居場所がないのだ。
根性焼きなんて一体いつの時代の悪しき風習だろう。もうそれが顔の目の前まで来た時、その地獄のような熱と痛みを覚悟した。しかしそんな痛み、もはや私にとっては何ともないかもしれない。私にとってそれほどにこの世界は地獄だった。
「やめようか、そういうの」
突如、煙草を持っていた女の手を力強く握りしめる骨張った手が見えた。びっくりしていた彼女たちは、手を掴んだ人間を見る。私も同じくその人物を見上げた。彼女らは日本人離れした容姿の男に目を奪われていたが、私はその男を知っていた。
それが兄だと認識した途端、涙が溢れてきた。
「何、痛ッ…離せよ」
「やめるって約束する?」
「あ?なんだよ、てめえ!五条の連れかなんかか?調子乗ってんなよ」
女はもう片方の腕を思い切り振りかざした。なんて愚かなことしているのだろう。その片方の腕も掴まれた女の表情は恐怖に満ちていた。
「俺、やめろって言ったよね?」
そう言った兄の目はサングラス越しにも怒りが滲んでいるのが分かった。
いつだってそうだった。兄は、兄だけは、私のことを本気で守ってくれた。だから私は今ここに居られるのだ。
「悟、その辺にしておきなよ」
「遅かったな、傑」
現れたのは私の家出に協力してくれていた傑さんだった。金銭というよりはたまにご飯に連れて行ってくれたり、食べ物を買ってきてくれたりしていた。また兄と一緒に日用品の買い物に付き合ってくれたりもしていた。そして私は彼にもまた事実を伝えていなかった。
涙がよりたくさん溢れてくる。
「次から次へと。アンタら学校の関係者じゃねえだろ?先生呼ぶぞ!」
「呼べば?」
「あんまり強がらないで、さっさと逃げた方が身のためだよ」
羽交い締めされていた私をいとも簡単に自分のもとに引き寄せた兄は、たぶん怒っている。こんな声聞いたのは、初めてかもしれない。そしておそらく傑さんも珍しく怒っている。二人ともいつもあんなに笑うのに、今は全く笑っていなかった。
流石にヤバイと思ったのか首謀者の女が「行くぞ」と言ってこの場から去ろうとする。そしてその際私をひどく睨み付けて「覚えてろよ」と言い放った。そんな強い言葉を吐き捨てながら、顔は兄と傑さんを見てビビり切っているその様が愉快だった。
「あのクソガキ…」
そう言って兄が舌打ちしたのが分かる。ガキって言っても兄と一つしか変わらないんだけどね、私たち。
そんな兄の怒りを踏み台に、私は惨めに去っていく女どもに中指を立てる。
「一昨日きやがれ、馬ァァ鹿ァッ!!」
怒りに任せて吐き出した言葉は、私の心を最高にスカッとさせた。彼女らは私が中指を立てていることに怒りを露わにしていたが、背後にいる二人のせいできっと何もできない。非常に愉快だった。乾いた涙の跡、残りの一雫が流れそうになったので指で拭う。
彼女たちが見えなくなったところで、兄は地面に転がった汚れた鞄を手に取った。
「そら月一で制服買い直すわけだ」
水を浴びせられ濡れた鞄は更に土の上に落とされ、泥汚れのようになっていた。それを雑に叩く兄の顔が見れなかった。
「ごめん」
兄は何も言わなかった。傑さんがため息を吐きながら「とりあえず場所変えようか」と言ってくれたので、私たちはその場を後にする。
***
「はい」
「ありがとう」
学校近くの公園はあまり人が居なかった。それもそのはず、もう時間は夕食時である。みんな温かいご飯が待っている家に帰ってしまったのだ。
隣に座った傑さんはブラックのコーヒーを飲んでいた。私の手元には甘いココアがある。兄は用があるから先に行っててくれ、と言ったまま帰ってこない。
「いつから?」
一見堅気じゃない人にも見えなくもない傑さんだが、喋り方や表情なんかは穏やかそのものだった。
主語が無くとも、それが何を聞いているのか分かる。私は泥だらけになった鞄を見た。この鞄も、今着ている制服も、今日食べるはずだった弁当も、全部兄や傑さんのおかげで成り立っていたというのに。
「入学、してから」
「え、ずっと?」
「うん」
甘いココアの缶をきつく握りしめる。指先がじんわりと温かくなった。私の目には再び涙が溜まる。
「そりゃあすごい演技力だね、名前ちゃん。私達は見事に騙されたよ」
「…ッごめ、ん…っ」
「名前ちゃんが謝ることじゃないだろ?」
兄に似た大きな掌が、私の頭を優しく撫でた。その振動でどんどん涙が零れ落ちた。
「あ、来たよ、悟。おーい、こっち」
「見りゃ分かるよ。誰もいないんだから」
兄にどんな顔を向ければ良いだろうか。考えても考えても分からなくて、ずっと俯いたままだった。兄が近付いて来るのが分かる。私は兄に迷惑しかかけていない。そう思うと、また涙が溢れてきた。
「名前」
名前を呼ばれた。兄はベンチの隣に座らずに、私の目の前にしゃがみ込んだ。そして下から覗くように私と目線を無理矢理合わせる。優しく触れた指が、止めどなく流れる涙を拭ってくれた。
「何で言ってくんなかったの?」
先ほどまでの怖い顔は何処かへ消えていた。兄は私の知る優しい兄の顔をしていた。私はそんな兄に何度も何度も嘘をつき、甘えてきた。
「お兄ちゃんが、自由に生きていいって言ってくれたの、すごく嬉しかった」
「ん」
「あの家は私にとって地獄だった」
「うん」
「せっかく自由にさせてくれたのに、自分で選んだのに、その道も地獄だった」
兄の想いを無駄にしたくなかった。けど、この事実を知ると、きっと兄は自分のことを思い詰めるかもしれない。だから言えなかった。自由だと思った方も地獄だったなんて、そんな悲惨なこと。
「お兄ちゃん」
兄は瞳はサングラスに隠れていて、よく見えなかった。
「私には、居場所がないよ…ッ」
兄は生まれたその日から居場所を確立していた。だが、私は違った。兄を妬ましく思った事は一度もない。それは兄が家族の誰よりも優しかったから。だからこそ、私が心の内でこんなことを思っていたと知ると、兄が悲しむんじゃないかと思って、ずっと言えなかった。
「俺はさ、呪術とか御三家とか正直そんなんどうでもいい」
「え…」
「名前が楽しく生きていてくれればそれで良いと思った。だからお前が普通の学校行くのも止めなかったし、応援した」
ココアの缶を握っている私の手を、兄の手が優しく包み込んだ。
「ごめんな。俺名前のこと全然救えてなかったんだな」
ほらこうなる。そんな悲しい顔しないで。私はお兄ちゃんのそんな顔が見たかったんじゃない。こんなはずじゃ無かったのに。
「居場所が無いって言ってたな」
「………。」
「明日からもうあの学校には行かなくていい」
「え?でも」
「さっき校長と話してきた。俺の名前言ったらすぐに頭下げてたよ」
「待って、お兄ちゃんどういう意味?」
「傑、それはちょっとやりすぎなんじゃないか。まずは名前ちゃんの意見も…」
傑さんの正論に対し、兄は聞こえているだろうな態と「え?」とふざけて聞き返している。兄が一体何がしたいのか分からなかったが、正直明日からあの学校に行かなくて良いと思うと、足がふわふわとするような感覚に陥った。
「名前、お前は自分の居場所が無いって言ったな?」
「……うん」
「じゃあ今からお前の居場所を与えよう」
さっきとは打って変わって明るい声は、いつもの兄の声だった。そう言って立ち上がって、兄は両腕を広げる。
「お前の居場所、俺の隣!はい、解決!」
「は?」
「え?」
あまりにも薄っぺらい言葉に私も傑さんも怪訝な声を出してしまう。ベンチに座ったまま動かない私たちを見て兄はあからさまに眉を潜め口を尖らせた。
「なんだよ、ノリ悪いな」
「いや、よく意味が分からなくて」
「要するに、名前は今から呪術高専に行くの」
「なんで!?」
「俺の隣が、名前の居場所だから」
「……で、でも、私は…」
兄の言っている言葉の意味はなんとなく理解できた。でも二つ返事ができないのは、呪術師として生きていく覚悟なんて、これっぽっちも無かったから。
「ああ、別に呪術師になれってんじゃないよ?まあとりあえずは高専に来たらいい」
「来たらいいってったって、そんなのアリなのか、悟?」
「うん、アリじゃね?てかゴリ押しするから問題ナシ」
たしかにまだ色々と問題はある。けれど今は、ただ兄の側にいられるだけでも良いんじゃないだろうか。
「とりあえず一緒に来い。そんで一緒にどうするか考えよう」
そうだ。兄の言う通り、生き方については、これから考えていけばいいんだから。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「ありがとう」
兄の大きな体に飛び込んだ。思い切りいったにも関わらず、兄は何なく私を受け止めてくれた。
「何も心配しなくていいからな。なんせお兄ちゃんは最強だから」
「うん、ありがとう」
「おい傑、何ボサッとしてんだよ。動画!動画早よ撮れ!こんな名前激レア」
「名前ちゃんは私の前では結構そんな感じだぞ?」
「は!?」
「ちょっとやめて二人とも。傑さん有りもしないこと平然と言わないで」