百合葬



 穢れを知らない夥しいほどの真っ白な百合たちがこちらを見ていた。この何とも言えない生花の香りは、死者を弔うのに不向きなのではないかと思えるくらい生を感じさせた。聞き取れない言葉の羅列が先ほどからずっと繰り返されていた。ここには生花の香りと別に、お香の匂いも充満していた。近親者からこの部屋の真ん中に設置された台に向かい、何かを摘んでは落としていた。その他には皆一様に数珠が携えられていた。手を合わせながら、そのまま泣く人間がいた。そんな様子をもう何組も見てきた。

『まだ若いのに…』
『良い子だったのに』
『まだまだこれからだったのに』

 そんな声がそこかしこから聞こえるたび、私の記憶の中にしか居なくなってしまった彼との思い出が、鮮明に甦る。

 初めて彼のことを知った時は衝撃だった。中学生で留年するなんて、早々聞かないからだ。きっとおかしな人なのだろうと思っていたが、彼は驚くほど真面目だった。しかしながら学力がそこに追いついておらず、常に一生懸命な姿が印象的だった。
 一年生の時に同じクラスだった松野くんが、急に彼に懐きだしたので、一体どういうことか、と思っていたが、そんなの彼と一緒に過ごすことが増えれば簡単に理解できてしまった。

 東京卍會という暴走族に属していながら、学校では一見真面目な姿を見せていた。しかしながら、彼は本当に助けてほしい時に、必ず駆け付けてくれるような、そんな人だった。

 いつの間にか焼香の順番が回ってきていた。学校からはクラス代表ということで私と仲の良かった松野くん。それから担任と学年主任が来ていた。ちなみに少し離れたところに東京卍會の彼らも来ていた。

「次、俺らだぞ」

 隣の松野くんにそう言われて、私はずっと浸っていたかった彼との思い出を反芻することを辞めて、正面に向かって歩いていく。

 まるで地に足がついていないかのような浮遊感を味わった。近づくたびに百合の花の匂いがきつくなる。まるでその匂いに毒されているのではないかと思うくらいに、手足が冷たかった。

 葬儀に参加したことなんて数えるくらいしかない。それも親と一緒に来ていたからマナーなんてものもよく知らない。隣の先生や松野くんたちの見様見真似で焼香を行う。

 百合の花の真ん中で笑う君を見ることはできなかった。
 その額縁の中の貴方を見てしまうと、私の中の何かがガラガラと音を立てて崩れるのが分かっていたからだ。



 百合の匂いにようやく慣れてきた頃、葬儀は終わりに向かえていた。各々が枕花を添えるために席を立ち、葬儀場のスタッフから花を貰っていた。シクシクと泣き声が犇めき合う中、私の手に渡されたのは百合の花ではなく、白いカーネーションだった。
 順番に棺の中の彼との別れを惜しむ光景が広がった。私はそれを客観的に見ている自分に気付いた。それはまるでこの現実を受け入れることができずにいる、いや、受け入れたくないと言わんばかりの最期の抵抗だろうか。

 花を添えるその時がやってきた。

 その時、彼を囲んでいたのは私と松野くんと、東京卍會のメンバーだった。それぞれが百合の花を置いていく中、私はずっと白いカーネーションを手元に持ったままでいた。というか動けなかった。

 ここに来て初めてまともに顔を見た。額縁の写真は見ることができなかった。見ると、全てを受け入れてしまわないといけない気がしていたからだ。彼が、死んでしまった事実を、受け入れてしまわなければいけないと思ってしまったから。

「野村、それ早く…」

 松野くんがしゃくり上げながら私に急かした。その声に周囲からの視線がいくつか集まるのが分かった。東京卍會のメンバーも泣いていた。特に泣いているのは棺を挟んで目の前にいた花垣くんだった。あとエマちゃん。みんな泣いているのに気づいた時、私は自分が涙一つ流していないことに気付いた。

「白いカーネーションの花言葉ってね」

 突如として出てしまった言葉がここに不釣り合いであることは分かっていた。「お前何言ってんだよ」と松野くんが涙声で言ってくる。エマちゃんも「ひかるちゃん、どうしたの?」と泣きながらこちらを見た。

「"私の愛は生きています"っていうの」
「………。」

 松野くんは何か察してくれたのかそれ以上何も言わなくなった。エマちゃんはそれを聞いてさっきより声をあげて泣いていた。それをドラケンくんが優しく抱き寄せていた。嗚呼、心底羨ましい、とその一瞬だけは妬んでしまった。そんな自分がとんでもなく嫌な人間になってしまった気がする。

 それもこれも、全部彼の所為。

「ねえ、場地くん」

 いつもそう呼びかけたら「なんだ?」って八重歯を見せてくれていたのに。なんで返してくれないの。

「ねえ、場地くん…」

 呼びかけても応答がない。いつもと違う場地くんの様子。真っ青になってしまった皮膚、硬くなってしまった頬っぺた、触れるとひんやりと冷たい体。そしてあまりにも過剰に添えられた百合の花があった。
 冷たい頬に指先をなぞらせると、それは自然と溢れ出てきた。

 それが目からこぼれ落ち、頬を伝うと、重力のままに場地くんの頬を濡らした。

「場地くん…」

 その頃には松野くんがまたしゃくり上げながら泣いていた。他の人たちも声を上げていて、私にはその意味がよく分からなかった。

「場地くん、なんで死んじゃったの?」

 強くあろうとする場地くんが好きだった。笑った時に見える八重歯が好きだった。ひとまとめにされた長い髪も、無造作に下ろされた髪も、その中心に窺える鋭い瞳がたまにくしゃりと三日月を描くのも好きだった。悪態をつきながらもなんだかんだ優しくて、身を呈して護ってくれるところも、大好きだった。

 場地くんが居たから、私は今の私を好きになれた。
 今の自分自身に自信が持てたのは、場地くんのおかげのに―――。

「私、まだ、何一つ、場地くんに伝えられてないのに…っ」

 手に持たされた一輪の白いカーネーションは未だに彼のもとには置けなかった。
 ついこの間まで彼は生きていた。普通に話して、同じ時間を過ごしていた。動いていたのだ。

 名前を何度も読んだら、

『なんだよ、聞こえてるっつーの』

 と笑う声が今にも聞こえてきそうだというのに。

 もう視界が霞むくらい流れ出た涙をそのままに、鼻を啜る。むせ返るような百合の香りが脳を麻痺させそうだった。

 報せを聞いて、一度も泣かなかった。いや、泣けなかった。嘘だと思いたかったのだ。どぎつい冗談だと思いたくて、確証を得るまで泣いてはいけまいと必死だった。

 それがこんないとも簡単に確証を得てしまうと、混乱した私の心と脳はもう制御できなくなっていた。
 
 私はおそらく壊れていた。
 私はこの場にいる誰よりも大きな声をあげて泣いていたらしい。過呼吸になりそうなほど、呼吸がおかしくなっていたそうだ。松野くんや担任の先生が介抱してくれていたそうだが、私はその時ずっと、ずうーっと、場地くんとの思い出に浸っていた。

 私は壊れてしまったのだ。