ネタ帳


メビウスの話
雪月(★ファイアロー♀)
アン(★イーブイ♂)
 空は気分屋さん。その日、そのときによって色を変える。涙のように水をこぼすこともあれば、白いふわふわとしたものを落とすことがある。ただよう白い雲も空の気分にあわせて形を変える。風はいろいろなところから運ばれてきて、やってきた場所の匂いを連れてくる。
 わたしはそんな誰でも等しく見上げることができて、誰にでも与えられる空に近づく翼をもっている。そう知ったのは死んだ後のことだった。なにもかもが手遅れなことなんだとちゃんと分かったのは、自分が空を飛べる生き物だと知って、誰もいないところで飛んでみたときだった。

「空は、涙が出そうなくらい青くてきれいだったの」

 でもそれ以外はなにも分からなかった。手を伸ばして触れてみた雲の感触。草木を揺らす風の匂い。地面の色を変える雨の温度。なにも分からなかった。一生懸命に手足を伸ばしても、翼を大きく動かしてみても何も感じることができなかった。 死ぬということはなにもなくなること。それがどういうことなのかを嫌でも理解した。それと同時にわたしは思ってしまった。

「生きているうちに知りたかった」

 生前は研究所の檻の中にしか知らなかった世界を死後に知ったことを後悔した。知らなければ未練を抱くことがなかったのに。殺された日のことを思い出すこともなかっただろうに。

「翼を千切られたときが1番痛かった気がする」

 爪を剥がされた。指を折られた、腕を千切られた。目を潰された。そして最後に首をねじ切られた。解剖というのだっけ。それをするように全部とられて死んだのだけれど、翼をもがれるときに1番悲鳴をあげた記憶がある。というか、思い出してしまった。あれは、白い服に身を包んだたくさんの人たちに身体を切られたり、お薬を入れられたりするよりも痛かった気がする。……もう痛みさえ感じない死んだ身体なのに、どうしてそのことを思い出すとじくじくと痛むのだろう。

「……どうして、わたしがあんな風に殺されなきゃいけなかったんだろう」

 それはただの未練だけではない。わたしを殺した彼への恨みもこもった言葉だった。うずくまって、声を押し殺して泣けば泣くほど胸の中には黒いどろどろしたものがたまり始める。そして、その思いは薄れることなく、むしろ日が経つことに増していく。

「あ、」

 そんなことを死んだ身でしてはいけないことなんだ。そう気づいたときにはもう遅くて、胸の中で膨らんだものがぱちんと割れたような音がした。

「あいつらが悪い」 「お前の存在が悪い」
 「どうして僕は殺されたの」 「わるいこと、なにもしてないはずなのに」
「殺さなくてもよかったはずじゃないの。一緒に逃がしてくれたら」
 「自分勝手な理由で殺された」 「そもそもお前が生まれなきゃ」
「わたしだって好きで生まれたわけじゃないのに」 「アンタだけ幸せになるなんて許さない」

「──わたしだって、普通の女の子みたいに生きたかった」

 最初はその嘆きにも近い恨み言は自分のものなのか、そうじゃないのか分からなかった。わたし以外の子たちの声の主たちがわたしの中で巣を作り始めていると気づいたのは、あか色の髪や翼が黒色に変わり始めているときだった。そして、その声の主たちがあの日、わたしが死んだ日に同じくして彼に殺されたきょうだいであることに気付いたのは、眠るたびに黒い靄の塊が夢の中に現れるようになってから。初めてそれに触れたとき、わたしたちが生まれた研究所と成功作品として扱われる予定だったわたし、そして殺した張本人への憎悪が流れ込んできた。ああ、この子たちが彼以外のわたしのきょうだいなんだとすぐに分かった。

「わたしだけ幸せになるのは許せないんだね」

 きっとこの子たちは力が弱くて、わたしのように死んだ後も人の形をして漂うということができなかったのだろう。そして死んだ後も図太くそういう形で漂って、いろいろなものを知っていくわたしを許せなかったのだろう。そしてきっと、今も生きて自分勝手に人生を送る彼のことも。

「だいじょうぶ。忘れるなと言うなら忘れないから」

 生きたかった。そんな未練が憎いという気持ちに変わっていくのはきっとこの子たちがわたしに忘れさせないようにするためなのだろ。それで満足してくれるのならば……それを死んでもなおわたしをきょうだいとして執着するこの子たちが求めているのならいいと思った。

「一緒に堕ちるよ」




「……これが、わたしが2週目に堕ちる少し前のできごと」
「……、……」
「ずるずると底なし沼に沈められるような感じだったかな。そんな夢を繰り返し見て、夢以外のところでもその声が聞こえてきたころにきき様に捕まったんだと思う」
「……雪月自身じゃなくて、ほかの子たちの怨念だけで」
「もうどれがわたしの気持ちなのか分からないの。だからもしかしたらわたしのもあるかもね」

 細い白銀の髪を撫でながら、絵本に描かれるには楽しさのひとかけらもないお話を語り終える。アンは少し眉を下げて、何を言いたげに口を開きかけては閉じるのを繰り返していた。小さい子ども……わたしよりも早く生き返ってこの世で活動しているから、もしかしたら年は重なっているのかもしれないけれど、きっと幼いと思う。そんなアンには少し重たいお話だったかもしれない。なんで髪と翼の色が黒く染まりかけているの? などという質問に対して詳しくしゃべりすぎちゃったかなあと反省をする。

「これできょうだいの縁によってがんじがらめになった女の子のお話はおしまい」

 あまり楽しくないお話だったよね。気分転換にパン屋さんにでも行こうか。
 暗い顔をして俯くアンを抱っこして少し笑いかけてみれば「……雪月が好きなちょこころね、ぼくのおこづかいで買ってあげる」と言ってくれたので、わたしはアンの好きなメロンパンを買おうかな。

ALICE+