えんちゃんが怪我を負った事故から2ヶ月が経とうとしている。2ヶ月もというべきか、2ヶ月しかというべきか悩ましいところ。世間からしたらもう2ヶ月なんだろう。当時はちょっとしたニュースにもなっていたけれど、今では1秒も流れる様子はない。けれども私たちの中では未だ何一つとして解決することがなく、2ヶ月しか経っていないというところだろう。
「うわ、くっらー。ただでさえ雰囲気が暗いんだからシャッター開けるなり、電気つけるなりしたらいいのに」
「はよ……そういうそのちゃんは汗だくだぞ。シャワー浴びてきたらどうだ?」
「おはよー。ん、そうする」
あの出来事は今でも悪夢となって何度でも繰り返し起きる。色も音も鮮明になって蘇る。正直毎晩のようにそんな夢を見ると心身ともに疲弊してどうにかなってしまいそう。私が潰れるわけにはいかないから踏ん張るんだけどね。……さっき思ったけど、なっちゃんも大分疲れたって顔していたな。最年長のなっちゃんが、うん。
「……もう限界なのかな」
鏡に映る自分の酷い顔を見てため息一つ。朝日が昇ったにも関わらず、カーテンもシャッターも開けないでお通夜のような皆を思い出してもう一つ。そして皆の状態を思い出して、3度目のため息。
「2ヶ月もあの状態が続いている」
心身の傷を癒すには短い時間。でも、これ以上この状態が続くのは非常によろしくない。皆の限界はこのあたり。となれば、私がとるべき行動は1つしかない。なっちゃんでさえ食事が喉を通らず、やつれる一方なのだから動けるのは私くらいだし、うん。
「相棒の役目というやつだよねー」
気合を入れるために特別なときだけ使うと決めた少しお高いシャンプーとリンスを取り出す。アーカラ島の大試練を突破できたお祝いにえんちゃんが買ってくれたもの。これを使ってシャワーを浴びよう。それから寝不足でくっきりできたクマを隠すためにメイクもがっつりしよう。
「えんちゃん曰く、1番可愛い姿しているときの女の子は無敵らしいからね」
気合を入れるためにパチンッと頬を叩く。それから人差し指で口角をくいっとあげて笑顔を作ってみる。大丈夫。顔色はなかなかに酷いものだけれど、表情に出にくいところが幸いしたみたいだ。笑顔を作ってみせれば、そこそこに余裕を持っているように見える。これならまだ、なんとかできそうだ。
*****
一定リズムを刻む機械音が響くナースステーションを横切り、えんちゃんが入院する病室へ足を運ぶ。途中ですれ違った受け持ち看護師さんから聞いた話だと、今日もえんちゃんは食事もリハビリも拒否したらしい。何もする気になれない無気力な状態。でもそんな状態に焦燥が増して苛立っているのだろう。看護師さんの「機嫌が悪いみたい」という困った表情を思い出しながら病室の扉の前に立つ。深呼吸を数度してからノックを二回して、返事を聞く前にガラッと扉を開けた。
「えーんちゃーん。はいっていいー?」
「……ノックと同時に入ってるから聞く意味ねーだろ」
看護師さんの言う通り、今日のえんちゃんは機嫌が悪かった。正確には今日も、だ。一口もつけられていない食事に目を一瞥してから「うっわあ」とわざとらしい声をあげる。
「えんちゃんってば今日もひっどい顔してるー。昨日よりも5歳くらい老けてるよ」
「うるせえ」
低い声で鬱陶しそうに会話を切られる。入院してからずっとこんな様子。それでも私はへらりんと笑ってベッドサイドにある椅子に腰をかけて「ほらほら、ご飯食べないと大きくなれないよー」とスプーンでご飯を掬って口元まで運ぶ。舌打ちをしながら睨まれた。そんなこと、今まで一度もされたことないから結構辛い。
「この病院のご飯、美味しそうなのに食べないなんてもったいない」
「じゃあ園香が食べれば」
「それができたらと毎日思いながら冷めたご飯と睨めっこしてるよー」
でもこれはえんちゃんのために用意されたご飯だから食べないよ。看護師さんにも怒られちゃうし。そう笑って言えばもう1度舌打ちされる。ここで傷ついた顔をするわけにもいかず、必死の思いで笑顔を保つ。
それから数分の沈黙。えんちゃんはこっちを見ようとしない。せっかく髪を可愛く三つ編みして、メイクも頑張ってきたのにな。えんちゃんに褒められるの好きだから、可愛いって言ってもらえた格好してきたのに、一言も触れられないのはやっぱり寂しい。萎れそうになった気持ちをぐっと堪えて、今はどんな顔をしているのだろう。いつ話を切り出そうかなと様子を窺うと、えんちゃんは窓の外をじっと見つめて寂しそうにしていた。ああ、そうか。
「毎日お見舞いに来るのは私だけ。他の子たちはもう1ヶ月以上顔を出していない。なんて薄情だとか思ってる?」
「……別に」
図星らしい。分かりやすく眉間の皺を深くしてそっぽを向いた。その表情からは苛立ちと不安が見え隠れしていた。この2ヶ月、ずっとそんな顔をしている。えんちゃんに似合わない顔。見ていてこっちも苦しくなる。
「……あのね、来ないんじゃない。来れないんだよ」
「はあ?」
だから、告げないといけない。私たち8匹がこれ以上えんちゃんの負担を大きくしないようにと隠してきたことを。きっとそれを告げれば彼は今以上に自分を責めることになる。でも、言うしかない。
「伝依の声がでなくなったの、感情が抜け落ちたみたいに無表情だよ」
「……え」
「夏彦は大分やつれたよ、おじさんがおじいちゃんになったみたいにね。
久愛は甘いものを一切口にしなくなった、お菓子も作らないよ。
芽生は殴っても喜んだ顔を一瞬も見せなくなった、静かすぎて不気味だよ。
言咲は外の情報を全部遮断しているよ、あれだけ流行とか好きだったのにね。
先騎はご飯が食べられなくなった、無理に詰め込むと戻しちゃうの。
姫羽は髪の手入れを一切してないよ、だから今凄く痛んでいる」
淡々と告げる。あの日差しを隙間にも入れようとしない暗い部屋で虚ろな目をして座り込む皆を思い出しながら。もうどれくらい会話をしていないのだろう。少し前までは雑談を続けることができていたなっちゃんとも話さなくなった。
「皆、生気を失ったような顔をしている。体重も落ちて健康的とは言えない状態。そんな酷い姿を見せるわけにもいかないからお見舞いに来れないんだよ」
「おれの、せいで」
「えんちゃん」
「ごめ、おれ……っ」
「エンテン」
ぼろり。大粒の涙がえんちゃんの頬を伝い、数本の筋ができる。背中を丸め、肩を震わし、小さな身体が責任という文字でぐしゃりと潰れてしまいそう。
彼が謝る必要なんてないのに。誰も悪くないのに。どうしてこんなことになったんだろう。病室に来て、泣きはらしたえんちゃんの顔を見る度に何度も思った。その度に自分を責めた。そして1人、また1人と精神的に追い詰められていった。伝依は特に自分を責めて、声が出なくなった。最終的に、私以外は皆えんちゃんに顔を出せないくらい酷いありさまとなった。
「皆もう限界が近い。だから私、お願いしに来たの」
「おねがい……?」
「私たちを手放して」
ヒュッと息を飲む音が聞こえた。大粒の涙が溢れていた目はこれ以上にないくらい大きく見開かれている。ここまで言ったら取り消しはきかない、中途半端なところで閉じようとする唇を無理矢理にでも動かす。ああ、初めてかもしれない。えんちゃんと話すのに、重たいと感じるようになったのは。
「私たちのトレーナーをやめて」
「……そう、だよな。俺みたいにもう二度と旅ができないトレーナーの手から離れた方が、お前たちにとっては幸せだよな」
「誤解しないで」
俯きかけたえんちゃんの頬をむにっと両手で挟み、顔をあげさせる。この世の終わりだなどというような顔をしていた。こんな顔をさせたくて提案したわけじゃない。おでこをこつっと当てて、考えていることが伝わるように言葉を選ぶ。
「手放してほしいのはエンテンの傍を離れたいからじゃない。逆、傍にいたいから手放してほしいの」
「……なんだそれ」
「いつまでそうやって落ち込んでいるつもりだ。お前が自暴自棄になって全部を投げだすのは手持ちのポケモンたちに対して無責任で不誠実だ。シグレくんが言ったこの言葉が枷となって苦しんでるんでしょう」
「……シグ兄の言う通りだった。おれが自暴自棄になっていたせいで、お前らを苦しめることになった。伝依の声だって、おれが、おれが……っ」
「シグレくんの言葉は確かに間違ってはいないよ。でも、そのせいでエンテンが背負おうとした責任感で苦しんでいる姿を見て、皆も自分たちの存在が重荷になっているって苦しんでいるんだよ」
私を含めて皆に共通すること、それはあの事故で伝依を庇って大怪我をしたえんちゃんを、どうして自分たちは守れなかったのかという激しい後悔。ただでさえその後悔が募って自分のことが許せないのに、更に重荷になっている。これが耐えられなかった。私たちは、えんちゃんに責任を負ってもらいたいわけじゃない。責任を負ってもらうために手持ちになったわけじゃないんだ。
「だからエンテンから私たちを手放して。そうしたら傍にいたいという自分勝手な理由でエンテンの傍にいることができる」
「…………」
「私たちポケモンは10歳の男の子が自分たちの選択に責任を背負ってもらわないといけないほど、弱くないよ」
でもそれじゃあ貴方は納得しないでしょう。はい、そうですかとあっさりトレーナーの責任を放棄できるほど器用な人じゃないから。そういうところは否定していても石のように頭の固いシグレくんにそっくり。従兄弟なのに似てほしくないところが似ている。……だから手放してもらうしかない。
「自分のこれからだけを考えてほしいの」
それはまだ10年しか生きていない男の子には難しいこと、そんなの分かっている。でも、考えてもらうしかないんだ。フブキちゃんという天才の従妹にはできないことを自分なりにするのだと息巻いていて頑張っていた結果、挫折することになった彼自身で、早々と打ち砕かれた夢の代わりに何かを見つけてもらわないといけないんだ。
「エンテンが前を向いた顔が好き。馬鹿みたいに声をあげて笑う姿が好き。些細な長所を見つけて大袈裟なくらい褒めてくれるところが好き。人の都合を考えずに好き勝手突っ込んで、いろんな景色を見せてくれるところが好き」
「……」
「そういう貴方に惹かれた。そんな貴方のポケモンとして生きていけたらきっと幸せなんだろうなと思った。だから一緒にいるの」
「園香、」
「そんな大好きな人が2ヶ月も元気のない姿を見るのは苦しいよ。いろいろなものに押しつぶされそうになっている姿を見るのはもっと苦しい」
だからお願い。私たちのことで悩むのをやめるためにも、トレーナーであることをやめて。
それは悲しいお別れをするために手放すことじゃない。トレーナーと手持ちのポケモンという繋がりを断つことになっても傍にいることは変わらない。それだけは間違えないでほしい。その思いで手を握って少しだけ笑って見れば、えんちゃんはくしゃりと顔を歪めて、笑った。
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