牙のない獣

 紅い花が散った。
 突然の出来事に思考が追いつかなかった桃花はゆっくりと倒れゆくひよの姿を呆然と眺めながら、頬や眼鏡に付着したものに触れる。生温く、鉄臭いそれがひよの血だと理解するには平和な世界しか知らない桃花にとって難しいものであった。

「オレ、アンタに恨みはねェよ? でもよォ、誰か殺してェなって気分になってさ、目の前にちょうど良さそう獲物見つけちまったら仕方がねーだよォ」

 耳障りな笑い声をあげ、赤色のナイフを手元でくるくる回している男に見覚えは全くなかった。
 バイトの休みが重なった。だから桃花とひよの2匹で最近できたスイーツバイキングへ足を運び、舌もお腹も幸せに満たされ、仲良く談笑して散歩をしていた。その途中で雨が降ってきて、雨宿りできそうなところを探している間にすれ違っただけの男。状況を理解できるはずがなかった。

「も、ちゃ」

 重たい音をたてて地面に倒れはひよは打ち付けられた全身の痛みと、腹部に熱とともに広がる痛みに泣きそうになった。怖い、死にたくない、どうして。喉元にまであがってきた言葉を飲み込み、唇を噛む。今まで味わったことの無い苦痛を必死に堪え、硬直した桃花に声をかけようとする。しかし、息を吸い込むだけで痛みは増し、名を呼ぶことすらままならない。

「アー、でもアンタはそのうち殺される予定だったぜ。なんだったか、どこぞの運び屋のフシギバナ。アンタ、そいつのネーチャンなんだろォ? 巴がさァ、そいつの歪んだ顔見たかったらしくて殺す相手がどーっしても見つからなければ暇潰しに殺っておいてって言われてたしィ」

 刺した後に気付いたわけだけど。などと付け加えて、その偶然を大袈裟に驚いている男に朦朧とする意識の中、ひよは困惑する。今この場にいない、全く関係のない弟の名が口にされるのだから当然といえば当然のことだ。問いたいことは山ほどある。だが、そんな疑問を解決することよりも優先されるのはこの場から逃げること。今逃げねば間違いなく殺される。
 恐怖心に支配され、指先すら震わすことをできずにいる桃花を視界に捉え、息も絶え絶えであるにも関わらず、本当ならば今にでも泣き叫んで命乞いをしたいひよは踏ん張って冷静を保つ。

「も、もちゃ……っ、にげて」
「ぁ、」
「いやいや逃がさねェよ。」

 くるくる。男の手で回っていたナイフが太腿に突き刺さる。じんわりと、薄紫のズボンに広がる赤いシミ。痛みと無縁に生きてきた桃花は悲鳴すらあげることができなかった。
 腰を抜かして、息を乱して、とめどなく落ちる涙に視界を歪めて。獲物を追い詰めるようにゆったりと近寄る男に釘付けとなる。

「アンタもさァ、男に守られてたタイプだろォ。苦労も知らず、痛みも知らず、さぞかし可愛がられてきたんだろうなァ」

 刺され、刻まれ、裂かれ。
 皮膚から溢れる赤い液体は地面に飛び散り、雨水に流される。肌を濡らすものたちへの不快感を覚える余裕なんてとっくの昔になく、傷が1つ増える度に桃花は非現実的な状況に思考を掻き混ぜられる。

「その顔を剥いでさァ、身体をズタズタに切り裂いてやったら簡単に捨てられちまうんだろうなァ」

 濡れた藤の髪を引っ張り、立ち上がらせる。ガチガチと奥歯を鳴らし、恐怖に染めた顔を見て男は嬉しそうに口角をあげる。そして、刃先を耳の下にあて、輪郭に沿わせて滑らせる。

 不気味な男の笑顔で視界を埋められる。
 悲鳴に近いひよの声が鼓膜を振るわす。
 桃花は死を間近にする。

「しに、たくない」

 絞り出された言葉は雨音に掻き消される。それでも、口にした桃花は今自分の身に死が襲い掛かろうとしていることを強く実感した。そして、彼女が抱いたものは恐怖。

 ──ではなく、強い生存欲であった。

「ぁ、あああああああ」
「おお?」

 悲鳴に近い唸り声を上げ始めた桃花に、男は距離を置く。ドサリと音をたててその場に崩れ落ちた桃花は声をあげることを止めない。傷だらけで身体中が痛むはずなのにも関わらず、まるで痛覚を失ったかのように叫び続ける。

「ああああああああああああああああ、あ゛あ゛、ああああああああああああああああああああああああ」

 ──咆哮する様はまさに獣。

 この場を支配していた殺意が一瞬でかき消す咆哮は、地を震わした。男もひよも、その姿に圧倒される。
 空に向けて、天に向かって咆哮し続ける桃花は光に包まれる。小柄の少女のシルエットが膨らみ、髪がふんわりと広がる。カシャと眼鏡が地面に落ちた。しかし、進化を遂げた桃花の目はしっかりと、男を捉えていた。

「う゛──っ」
「なんだ、コイツ」

 進化を遂げることで姿かたちが成長したところで、爪も牙ももたぬ、ほんの少し前まで怯えていた少女に変わりはない。能力値が上昇したところで戦闘経験が皆無に変わりはない。現に威嚇をしているわりに隙だらけだ。男との実力差が埋まることは天と地がひっくり返ってもありえなかった。
 だが、警戒心とは無縁に生きていた快楽主義の男の脳に警鐘が鳴り響いた。爪も牙ももたぬ脆弱な生き物に危険を察知した。それもそうだ。この男は知っているのだ。
 この世界で最も強いのは鍛錬を積み重ねた手練れでもなく、能力に優れた天才でもない。そう、最も強いのは生存欲が強く、本能を剥き出しに野生の獣であることを。

「無残な姿で転がして、男に捨てられる惨めなところを楽しませてもらうつもりだったが予定変更だ。きっちり刻んで殺してやらァ」

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