「あ、」
香ばしいパンの匂いに包まれてお店を出て、地面が濡れていることに初めて気付く。今日は雨の日だったんだ、珍しい。と、幸運に恵まれている少女は鈍色の空を見上げながら息を吐く。
冬入りをしたというのに暖かな日が続いていたが、さすがに雨も降れば気温が下がるらしい。吐いた息が白く染まっていて改めて冬に移っていることを実感する。
「さて、どうしましょう」
種族柄幸運に恵まれ、外出できた日には高確率で晴れとなる初陽が折りたたみ傘などという使用頻度の低いものを持ち歩いているわけもなく、屋根の下で足止めを受けることになる。
高貴なお嬢様ともなればこのような事態、お金にものを言わせてタクシーでもなんでも使えばよいのであるが、富裕層の出ではあるが今や親戚に引き取られ下手したら屋敷の使用人よりも立場の低い初陽がそのような手段を取れるわけもなく……そもそも高貴なお嬢様が付き人を連れず1人徒歩で町を歩くということから有り得ないのだが。
とにかく、富裕層に生まれただけで感性は限りなく一般庶民に染まり、自分でできることは自分でした方がいいじゃない! の考えをもつ彼女にとって突然の雨への対処として浮かぶことはただ1つ。
「……パンさえなければ走ったのに」
走って帰る、これのみであった。茶色い袋にいれられた焼き立てほやほやのパンたちがなければ初陽は雨足が強くなる中、躊躇い無く走っていたであろう。もっとも、このパン屋の噂さえ耳にしていなければ初陽の好奇心をくすぐられることもなく屋敷の者の目を盗んで脱走することもなかったのだが。
苦労して手に入れたパンを水浸しにするなんて勿体ないことはしたくない。どうせ浸すならとろっとろに溶かしたチーズが望ましい。だが、このまま足踏みしていても雨がやむ気配はない。さて、どうしようか。ひんやりとした壁にもたれ、初陽は広場に立つ時計を眺める。
「あと5分」
5分経ってもどうしようもなければパンをこの場で食し、走って帰ろう。そうすれば温かなパンを台無しにすることもないし、ヤミカラスが鳴き始める前に帰宅することができる。
これからの動きを決めると、初陽はふうと一息ついて目を閉じる。視界が遮られた分、他の感覚が鋭くなり季節を肌で感じられることが心地よいのだ。
冬の雨はじめじめとした湿気がない分、刺さるような鋭さを増して当たると少し痛い。香りは澄んだもので、音も軽やか。
チクタク、チクタク。どこからか聞こえてくる秒針の音。広場の時計だろうか、それともお店の時計? 初陽は少し考えてから何でも良いかと音の出所を探るのをやめ、音に合わせて爪先でコツコツとリズミカルに叩く。「あと1分」と呟いてから残り時間を歌うように口ずさむ。そして秒数が2桁を切ったとき、初陽の耳に届く雨音が小さくなった。
「お嬢様が1人で外に出るってどうなんだ」
「声をかけようとは思ったの。でも旦那様とお話していたから」
「だったらせめて書置きするとか……いや、話し終わるまで待てよ」
「行き先を記したものを残せば他の人に見つかる可能性があるし、それに……」
私がどこに行こうと臣なら迎えにきてくれるでしょう?
ゆっくりと瞼を上げる。雪のように白い睫毛が震え、黒真珠を埋め込んだような瞳が雨音を遮った原因を捉える。予想通りの人物が大きい傘を手にして前に立っていることに、初陽は嬉しそうに頬を緩める。絶対的信頼を含んだ発言に臣はそれ以上叱るつ気力もわかず、「しかもやっぱり薄着で出てるし」と呆れた声をあげて持ってきたカーディガンを初陽の肩にかける。
「昨日までは暖かったし、雨なんて降ると思わなかったから」
「今何月か知ってるか?」
「えっーと……あ、もう12月なのね!」
「そうそう、12月。冬なんだよなあ」
だというのに長袖のワンピースのみで外出するこのお嬢様をどうしたものかとわざとらしくため息を吐いて見せる。そんな臣に「……次からちゃんと気を付けるから」と唇を尖らせて拗ねた顔をする。反省の色を見せる初陽であるが、臣は確信をもって返す。
「いや、絶対同じことするから1人で外行こうとするんじゃなくて、俺に声かけろって」
「でも臣だって他の仕事があるじゃない。毎度私の我儘に付き合わせられないわ」
はつ以上に優先することはないんだけどな。と、言いかけるがそれはそれで調子に乗らせることになる。今でさえある程度の自覚をしている状態で、絶対に迎えにきてくれるからという理由で1人勝手に外を出歩こうとするのだから……できるだけ望みは叶えたいにとは思うが甘やかすのはよくない、と頭を小さく横に振る。
それから初陽が雨で湿らせないようにと抱えている紙袋を受け取って「ほら、帰るぞ」と傘の中に招く。
「ねえ、臣」
「なんだ?」
「わざわざ持ってきた羽織が薄手のものだったり、傘1本しかもってきてなかったり……もしかして急いできてくれたの?」
「……じゃないとどこぞの誰かは薄着で雨の中走って帰ろうとするだろ」
大当たり。あと7秒遅ければ雨の中に踏み出してたわ。なんて言えば、「そこまで身体丈夫じゃないことを自覚しろ」と軽いデコピンをされる。あう、と間抜けな声をあげて額を押さえ「そういうことはするのよね」と頬を膨らませて臣の顔をじとーと睨む。
そして小さな尾のように束ねられた髪は少し乱れていることに気付く。そろりと視線を足元に落とせば、靴だけでなくズボンの裾が泥で汚れていた。雨でぬかるんだ地面を走って探してくれたのだろう。
「新しくできたパン屋さんがね、とっても美味しいって聞いたから臣と食べたいなと思って」
「チーズでも溶かすか?」
「ええ! そうやって食べたいなと思って。それでね」
「ん?」
「あっちに美味しいチーズのお店があるってパン屋さんに聞いて」
臣の服をくいっと引っ張り、パン屋で雑談をかわした店主に教えてもらった道を指さす。あー、もしかしてそれはと目線を落とせば満面の笑みを浮かべて臣を見つめている初陽がいた。
そして察し、諦める。こんな顔をして言い始めた初陽には何を言っても聞きたがらない。何より、日頃屋敷では自由が限られている身だし、折角外に出たからには満足するまで好きにさせてやりたいという気持ちがある。……本当ならば早く屋敷に戻り、冷えた身体を温めさせたいのだが。
悩みながらも「分かった。こっちでいいんだな?」と屋敷とは反対方向に足を進め始めた臣に、初陽は小言を言ってもお願いを断ることはしないよね。と満たされた気持ちになりながら「屋敷に戻ったらすぐお風呂はいるから」と伝える。
「前みたいに少し疲れたから休んでからと言って寝落ちは無しだからな?」
「あ、あれは臣が用意してくれた紅茶に安心しちゃって」
「じゃあこれからはお風呂上りに出すからな」
「えー……」
などという会話を繰り返してチーズの店に足を運ぶのだが。道中にある店に目移りした初陽があっちも見たいこっちも見たいと言い始め、結局屋敷に戻る頃にはヤミカラスが鳴き始めていた。
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