恋、願う。

 空が白み始めるよりも早く目を覚まし、彼の温もりも匂いも感じない布団に身も心も冷たくする。それが凄く嫌で、二度寝をする間もなく冷え切った床に足をつける。そういえばこのお屋敷で暮らすようになってから二度寝をしたことがないなあとぼんやり考えながら、静かに襖を開き、生活音が1つもしない廊下を歩く。
 さて、どうしよう。はあと吐き出した白い息に目を細めて居場所を探す。……青葉くんから離れるために家を出て、拉致される勢いで結彦くんのお宅? 所属しているお屋敷? にお邪魔することになったのだから居場所なんてないようなものなのだけれど。と、気持ちが沈んでいく。

「最近随分早起きな子がいるなあと思ってはいたけれど、やっぱり桃花ちゃんだったんだあ」
「あ……えっと、茉里……さん」
「あはは、茉里でいーよ! 」

 廊下の木目を眺めながら歩いていると、可愛らしい声に呼び止められる。目を向ければ、縁側に座り、まだ陽の射さない庭を眺めてお茶をしている組長の娘・茉里さんがいた。言葉をかわしたのは結彦くんがここに連れて来てくれた初日以来だな。楽しそうに笑って他の人とじゃれている姿はよく見かけるけれども……などと日中の姿を思い返してお辞儀をする。

「眠れない? お布団よりベッド派だった?」
「……寝床にはこだわりありません。少し前までは野宿も普通でしたし」
「野生のポケモンさんだもんね。旅もしてたってわけかあ」

 旅をしていた頃、青葉くんといろいろな街や地方を巡ったことを思い出して懐かしい気持ちになる。……定住を始めてそこまで年月経っていないのに、もう遥か昔のように感じる。あの時はずっと青葉くんと一緒にいるものだと思っていたけれど、現実は上手くいかないなあと悲しくなってきた。

「どんな旅をしてたの?」
「そう、ですね。旅というか、わたしにとっては旅行に近かったのかもしれません。幼馴染がずっと傍にいて、守ってくれたから。不自由はなかったし、楽しい事だけだったので」
「へー。その幼馴染っていうのが今回お家を出ていくきっかけとなった子なんだよね? どんな子、どんな子?」

 興味津々と目を輝かせる茉里さんに、朝早くから元気だなあと思わず苦笑する。よく見ればお茶だけではなくお菓子まで用意してある、しかも2人分。……もしかしてこの人は最初からわたしと話すためにここにいたのかもしれない。そんなわたしの視線に気付いたのか、茉里さんはくりくりした大きな目を細めて「お茶もあったかいし、お菓子も美味しいよ」と、隣を勧めてくれた。

「幼馴染……青葉くんとは物心ついた頃からずっと一緒にいました。生まれ故郷が一緒なんです。とっても優しくて、頼りになって。困ったときにはいつでも手を差し伸べて、笑顔で助けてくれるような人で。バトルも強くて、本当はもっと遠くに、もっと自由に空を飛べる人なのに歩調をわたしに合わせてくれていて……話し始めたら止まらないくらいかっこいいところはたくさんあって」
「結彦から聞いてた通りだあ。桃花ちゃん、その子のことが相当大好きなんだねえ」
「っ、はい。誰よりも大好きな人です!」
「ふうん。なのにお家出てきたんだね。ねえ、桃花ちゃんは本当によかったの? 家を出て、ここに来たことでその子の隣が他の子で埋まることになっても。気持ちも何も伝えず離れて、戻ったときには自分の居場所が少しも残っていないことになっていても」

 茉里さんの言葉にひゅっと息を飲む。考えなかったわけじゃない。自分がいなくなれば、その分誰かが穴埋めをすることを。きっと雪花団のうちの誰かしらが青葉くんの傍にいてくれることを、思いつかなかったわけじゃない。それについて考えてしまうと止まらないから目をそらしてきたのだが、真剣な表情で見つめてくる茉里さんに対して誤魔化そうという気持ちは生まれず。気付いたときにはぽつりぽつりと口にし始めていた。 

「そんなの……そんなの嫌に決まってるじゃないですか。だってわたしの居場所はずっと青葉くんの隣だった。初めて行く場所に不安があっても、すごく辛いことや怖いことがあっても、青葉くんのいるところに帰られるから頑張ってこれたんだもん。大事な居場所だった、そこがなくなったらわたし、どう生きていけばいいのか分からない。どこに帰ればいいのか分からない」

 言葉が溢れてくると同時に、涙も止まらなかった。頬を伝ってぽたぽたと落ちる涙は寝巻にシミを作っていく。慌てて拭うも止まる気配はいっこうになく、やだなあ。青葉くんと離れてから何度目の涙だろうと両手で顔を覆う。
 その間茉里さんは口を挟むことをせず、お茶を啜りながら続きを待ってくれていた。

「青葉くんが恋する子はとっても素敵な子に決まってる。これから大事だなって思う人たちは心の支えになってくれるんだと思う。本当はそんなの絶対嫌だ。だって、もう十年以上もそこにはわたしがいて、わたしの1番の宝物だった。青葉くんの隣以外、何もいらないくらいだもん」

 幼馴染の特権だ。
 朝起きて、夜寝るまで。1日の始まりと終わりの顔を見ることも。嬉しいこと、悲しいこと。自分の身に起きたことを共有することも。誰よりも多く触れてもらえるのも、笑顔を向けてもらえることも。全部、幼馴染だからこそ隣で与えてもらえたんだ。

「本当は誰にも譲りたくない、一瞬でも他の人にいてほしくない。誰よりも青葉くんの隣にいたいって願っているのはわたしだって自信がある」

 青葉くんから離れてから気付いたことがある。それはわたしは自分で思っていたよりも貪欲であるということだ。
 ずっと思っていた。青葉くんがわたしを大事にしてくれているのは幼馴染だからだと。それでもいい。その関係でも傍にいれるから、今の関係でも十分満たされてこれ以上にないくらい幸せだから。だけど、少し離れただけで。青葉くんが他に目を向けて、違う人が隣に立つ日も近いかもしれないと考えただけで。胸が張り裂けそうなくらい辛かった。きっと笑顔で祝福できない。大切な人が幸せになることほど素晴らしいことはないのに、それを喜べない。

「だけど、ずっと与えられてばかりのわたしがこれ以上青葉くんを縛っていいわけがないから。だから……っ」

 何もできない幼馴染の面倒を見るという、当たり前のことになっていたものを取り払って外を見てもらうためには。ずっと独占していたい幼馴染を縛る恋心から解放するためには。こういう選択肢をとるしかなかった。

「すごいねえ。それだけ希っている相手なのに身を引けたんだ。しかも二度と会わない覚悟で」
「……少し離れただけでこんな風になるんだもん。きっと次顔を合わせたら、わたしは青葉くんの傍から離れるなんてできなくなるから」
「ふうん、そっかそっかあ」

 数度頷いた後、茉里さんは太陽みたいに輝いた笑顔を浮かべて「簡単なことだよ!」と手を叩いて立ち上がる。このとき、わたしは何故か結彦くんが意地の悪い笑顔を浮かべて「組長の娘は荒療治と強引なことが得意だからな。うっかり口を滑らせたら大変だぞ〜」と、話していたことを思い出した。できることなら1時間くらい前に思い出したかったことだなあ。

「何もできないなら、何でもできるようになればいいんだよ」
「……へ?」
「そうすれば彼に何もできないなんて自分を卑下する必要はなくなるでしょ。桃花ちゃんも自分の世界を広げて、ハイスペックになっちゃえばいい話じゃん!」

 無知なわたしでも理解することは難しくなかった。彼女は無邪気な笑顔を浮かべながら、今まで何もせず、誰かに助けられてきたわたしに対して相当難易度の高い提案をしていることを。しかも拒否権などというものは一切ない。

「そのためにも今日からお客様扱いもやめて、こき使うことにするね!」
「え、あの、お世話になっている手前、お手伝いはさせていただきますが……その、組にはいるつもりは」
「まずは荒事に対応できるところから始めないとねー」
「あ、聞いてない」

 青葉くんのもとを離れて早数日。今日ほど彼のもとに帰って抱きしめてもらいたいと思った日は後にも先にもない。


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