ランナーズハイ。長時間走り続けていると気分が高揚していくこと。マラソンとかでよく使われる言葉だけれど、他にも徹夜明けのハイテンションもこれに該当すると思う。何が厄介って、倦怠感が強く、今すぐにでも眠りにつきたいくらい疲労困憊なのにも関わらず目が覚め切ってしまうところだ。締め切りからようやく解放されたのだから存分に眠りたいというのに。
「つーちゃあん。お風呂はいっても駄目だったよお」
「そのちゃん、お疲れ様。お風呂上り用にアイス買っておいたけれど食べる?」
「食べるー」
お気に入りの入浴剤をいれ、花の香りのする乳白色のお風呂でたっぷりと身体を温めたにも関わらず眠気は誘われず。倦怠感が増す一方で髪を乾かす気力も起きず、ぐってりとソファーに倒れこむ。買い直したふかふかのクッションが気持ち良い。それからうだうだと声を上げながらつーちゃんに泣きつくと、ひとつのカップアイスがガラステーブルの上に置かれる。やったあ、バニラ味。しかもちょっとお高めのやつだ。と、喜んで手を伸ばそうとし、そして気付く。
今、私はつーちゃんに声をかけたはず。なのに、声が返ってきた。しかも、ここにいるはずのない人の声だ。
「……つーちゃんはいつから失声症が治ったのかな?」
「残念だけど彼は今日も筆談だったよ」
「そうだよねぇ。だってお風呂入る前までそれでやりとりしてたし…………で、なんでアサヒくんがいるの。そしてつーちゃんは」
アサヒくんがいるとも、来るとも聞いていない。そして呼んだであろう犯人がこの場にいない。気配を探れど、そもそもこの家の中にいる感じもない。どういうことなの。不意打ちで声をかけてきたアサヒくんを恨みがましく睨んで問いかける。徹夜明けの酷い顔は見られたくないので足掻きとしてクッションから顔をあげずに。その効果なんてたかが知れているけどね。
「俺と入れ替わりに出かけるって」
「そう、そう……で、いつの間につーちゃんと連絡取り合う中になったの?」
「それが連絡はそのちゃんからで」
「あのやろう、勝手に人のスマホを触ったなあ!」
今頃イタズラ大成功、なんてるんるんしているであろうつーちゃんの顔を浮かべ、「こういうところあるよね!」と叫ぶ。誰よ、私たちの中で1番良識的で素直な子と評価したの。今すぐ訂正してほしい。つーちゃんはいい子に見えて実はとんでもないイタズラっ子なんだぞ、身内限定で。例えば人のスマホを使って、女の子らしかぬ姿を見せないために連絡せずにいた彼氏を脱稿直後という1番酷い姿のときに呼び出すとか。というかロックかけていたはずなのにどうやって使ったのよ。
「そのちゃんは単純だから簡単だって言ってたよ」
「許されない」
「お仕事頑張ったご褒美なんだって」
「ご褒美どころかとんだ悪夢だよ。ノーメイクどころか連日の徹夜で身も心もぼろぼろな姿を好きな子に見られるとか拷問だからね。どんな嫌がらせよ」
何を思ってアサヒくんを呼び出すことがご褒美だと思ったのか小一時間ほど問い掛けたい。徹夜明けの私がどういう状況になるのかなんてつーちゃんが1番知ってるくせに。
「甘えたがりになるんだってね」
「どこまでお喋りさんなの」
「そこまで話したらそのちゃんに叱られそうだねって言ったら、こうでもしないとそのちゃんは一生ぼろを出さなそうだからって」
「酷い……」
「そのちゃんは嫌がられるくらいに甘やかすくらいがちょうどいいんだって」
そのちゃんの1番身近にいる子の言葉だから納得していたけれど、違うのかな? などとしゅんとした表情で言われてしまえたらこれ以上の文句が言えない。今ルガルガンの耳や尾が生えていたら垂れていたことだろう。それはそれで可愛いなとは思うけどね。
先程取り損ねたアイスを手に取り、蓋を開ける。甘い香りがふわりと広がり、とても美味しそう。アサヒくんにもたれる。好物と好きな人を楽しめる時間はなんて幸せなのだろう。
「……」
「どうしたの?」
「本当に素直に甘えてくれるんだなって」
「つーちゃんの言うこと疑っていた?」
「本当のことだろうけど、俺に寄りかかるのかは半信半疑だったから」
「できることなら身なり整えて見栄を張りたいところなんだけれどね。その余力すらないから」
なのでつーちゃんの思惑に乗って素直に甘えることにしました。と、アサヒくんにぐいぐいと体重をかけ、頭を押し付ける。脱力しきった私の様子を見て、穏やかに微笑んだアサヒくんは「じゃあいっぱい甘やかさないとね」と、隈が浮かんだ目元をなぞり、数日でやつれた頬に滑らせ、アイスで湿った唇へと指先が落ちてくる。それがくすぐったくて、条件反射のようにぱくりと食んだ。
「そのちゃん。指は食べ物じゃないよ」
「くすぐったいからつい」
「ついって悪い癖だなあ」
指を離せば、そのままふにふにと唇を押して遊ばれる。そういうことをされると睡眠不足も合わさってむらっとするんだけどなあ。なんて、はしたないことを考えている女だと知られてがっかりされるのは嫌なので言葉は飲み込むのけれど。……うん。今日は甘やかしてもらいたい気分になったからなあ。
「アサヒくん」
「ん?」
「キスしたい」
ぽつりと零した言葉にアサヒくんは目を丸める。こういうお願いをめったにしないから驚いたのだろう。でも、それは少しの間のことでその後すぐに微笑みを浮かべ、ごつごつとした手が頬に触れる。その手にすり寄って目を瞑れば、柔らかく唇を塞がれる。すぐに離されそうになる薄い唇が名残惜しく、自分から再度口づける。何度も繰り返しているうちに開いた唇に舌を差し出すと躊躇うことなく絡めとられる。
じんわりと広がるバニラ味の甘さが一層増した気がする。しばらく舌を絡めてから、尖った犬歯を撫でるとアサヒくんがびくっと揺れるのを感じ、笑いがこぼれる。
「満足した?」
「うん。少し眠くなってきた」
「それはよかった。そのまま眠るといいよ」
「……そうするから、起きるまでちゃんといてね」
きゅっ、とアサヒくんの手を握り直し、瞼を閉じる。頭がふわふわして、意識が揺らぐ。ようやくいい夢に沈めそうだなあ。
prev next
TOP