踏み躙られたものたち
*妖ヒロインとエミヤが契約する話。
*聖杯戦争とは別の話です。
「…う……っ、…ここ、は…」
「気が付いたか、人間」
波音が、遠く、近く、耳を打つ。耳朶に馴染むその音に、回そうとした思考が途切れ、再び無の世界へと誘われるのを感じ、開きかけた瞳を、ゆっくりと下した…とき。べちりと何かが頬を叩いたのを感じて思わず飛び上がるように体を起こした。
そして、彼はその灰の瞳を見開く。
そこには…うつくしい『化け物』がいた。
鮮やかな刺繍の施された朱色の着物に、満月を映し出したような髪と…尾。
そしてどこか危うげな光を宿すぱちりとした瞳。
その立ち姿が一輪の花のようにうつくしく、そして恐ろしく。青年は己を見下ろすそれをただ見上げるしかできなかった。
そんな青年の姿をどこか愉しげに笑ったそれは、紅の塗られた唇をねとりと開く。
「妾は九つの尾を持つ妖なり…まあ、仮の姿だがな。
恐れ戦くがよいぞ人間。そして己の幸運を咽び泣くが良い。
妾を知るものはおらぬ。この姿を見たものは呪われて死ぬようだ」
「……恐ろしいものなど、死ぬほど見たさ。
もう神だろうと悪魔だろうと…今更驚かんよ」
「なんだ。随分つまらん人間よな」
「がっかりさせてしまったのならば、すまないな。
もう…俺は、死を覚悟している…」
「ほう…。決意を固めた人間か。それとも守る者のいる人間か。
そのような人間は飽くほど知っておるぞ。奴らは妾を目にすると揃って腰を抜かす。
そして、戦場では主への忠誠、騎士の意地、愛するものへの誓いを声高らかに謳うその口で、こういうのだ…『欲しいものは全て差し出すから殺さないでくれ』とな」
「…そのような大それた人間ではないのでね」
「そうかそうか。なれば…人間。そなたは何を乞う?」
「なにも…。もうなにもない」
「………ふむ」
柔らかな砂浜に腰を下ろしたままに項垂れる青年は、絶望していた。故に今己の置かれている状況などどうでも良かったのだ。生死にも執着を忘れた彼の目は死人のそれであった。
そんな青年の様子を見て名前は口を開きかけるが、ふと1匹の狐が彼に近づくのを見て、口を閉ざす。
小さい体にふわふわのまだ柔い金毛。幼い狐は軽やかに彼の膝に飛び乗ると、その顔を覗き込むように見上げ、ぺろりとその頬をなめた。
驚いたようにびくりと、体を震わせた青年に頬擦りをするその子供に、名前は目を細める。
幽玄に揺れる灯が、並ぶ灯篭に宿る。果ての見えない海に立つ幾重にも続く朱の鳥居のその先に、この場所はあった。
彼岸と此岸を結ぶ狭間の世界にある名前の住処を訪れるものはいない。ただ…例外を除いて。
それならば何故…青年が此処にいるのか。それは…。
**************
とある広大な砂漠に造られた街では、大きな戦が続いていた。
それは巨大な国との勝ち目のない戦であった。だが自分の国の勝利を妄信する一部の人間により戦いは激化していく。食料も水も、何もかも足りなくなることは、名の知れた学者でなくてもわかる簡単なことだ。しかし彼らはこう国民に告げた。『民は国のために尽くすのが定め。血の繋がった家族であれなんであれ勝利のために捧げよ』…これによって、人々は拒否する権利すらも奪われ、人として死ぬことは許されず、国の奴隷として死んでいった。
戦士の足りなくなった国は形振り構わず傭兵を招き入れた。これにより少し戦況は増しになったが、治安は更に悪化した。戦力になる傭兵が街で例え何をしようとも、国は民を救うことはなかったのだ。
そこに、1人の青年が現れた。
卓越した戦闘センスを持つ彼は戦場で華々しく活躍をみせ、敵国からも自国からも恐れられる存在であったが、彼は民に優しかった。弱り切った民に救いの手を差し伸べ、自分にできることをその身を削ってでもやり遂げた。乱暴されかけた少女を救った、強盗されかけた老人を救った、苦しむ国民に常に目を向けた。…彼は国の民に慕われる傭兵となった。
…しかし…それは、戦争が終わったその時に覆されることになる。
あれだけの戦力があったにも関わらず、引き分けとなった戦いは、青年の貢献が大きかった…が。その国の王はそれを恐れた。見て見ぬふりをし続けた国民の、目が彼に向く。もしかしたら自分が玉座を追われるかもしれない。ならばどうするか。…全ての罪を、押し付けてしまえば良いのです。彼の側近がそう囁いた。
「待ってくれ…っ!!私は、何もしていない…!!」
「黙れ!!穢れたスパイめ!!貴様の罪状はもう決まっている!」
「っ…、なぜ…。私はただ、戦っただけだ!!この国のために!!」
「嘘を吐くな!!貴様は笑っていただけだ!
向こうの国と、我が国がぶつかり合い血を流しているのを!!」
がしゃん、と冷たい牢獄の檻が開け放たれ、青年の手首を足を縛り付ける鉄が揺れる。
2つの国のスパイ。所謂二重スパイの罪を擦り付けられた青年が、処刑台に立ったのは終戦から僅か3日後のこと。それだけ彼の力は脅威であったのだろう。
強い風に砂が舞い上がる中で、街の中央に建てられた処刑台の周りには多くの民が集まっていた。
だが…そこには国の英雄を賛美する声も、そんな英雄を蔑ろにする国に怒り狂う声も、なかった。称賛されるべき青年に浴びせられたのは、嘲りと罵り。怒りに歪んだ顔で叫ぶ国民の、負の感情は全て青年に向けられたのだ。
裸足で処刑台に立たされる、足からつたう感覚に彼はまた絶望する。
元々己の定めはこのようなものだということはわかっていた。けれど、彼は人間であった。どんなに絶対の意思を持とうとも、その精神は摩耗する。限界だ、と思ったその時。彼は群衆の中から1匹の…金のそれが飛び出してくるのを、見た。
…そこで彼の記憶は終わっている。
その時に見た、金の毛玉のような動物を彼は知っていた。あれは青年が街で売買されそうになっていた所を助けた…子狐であったのだ。違法とされる薬も人間も戦争という大事の影に隠れ普通に行われていた街では、大したことではない。だが小さな檻の中で泣き叫ぶ小さな命を、哀れだと…思った。
****************
「キミは…あの時の、狐…」
「ふん。本来なら人間には干渉しないのだがな。
それがどうしてもと泣くものだから、手を貸してやったのだ。
命には命を、救いには救いを。等しきものを返した」
「……なぜ」
「余計なことを、と思ったであろう?
顔に出ておるぞ…まだまだ未熟よな…人間。
これは妖の気紛れ。妾の同胞の願いを聞き届けた、それだけだ」
「…俺は」
青年は自分の手に視線を移す。褐色の大きなそれは…剣を持つもののそれで。
何かを思うように己の掌を見つめる青年の視界に、ぽん、と動物の手が乗せられた。それに暫く硬直していた青年であったが、ふとその唇を緩める。
「問おう…。ヒトの為に戦い、ヒトにより殺された愚かな人間よ。
貴様は何故生きる?」
「…俺は…。正義の、味方になりたかったんだ」
「……正義」
「弱きものを助ける、強い人間に…なりたかった。
だけど…救えないんだ。救い…きれない…っ!!俺の、力が…足りないんだ!」
名前が静かに青年にそう問いかけた瞬間、彼の顔が歪んだ。
ぐ、握り締められた拳が震え、爪が食い込んだのだろう赤い筋が褐色を染めていた。
吐き出されるそれは、何度も何度も彼が叫んだ言葉で。1人あの剣の丘で、幾度も嘆き問い続けたそれであった。
ふわり、と甘い香が彼の鼻を擽ったかと思うと、いつの間にか目の前に名前がいた。
着物の裾を抑えながら優雅に座り込んだ名前は、青年に軽い笑みを向けたかと思うと…その額を思いっきり指で弾いたのだ。
「っだ…っ!!」
乱れかけていた口調が更に乱れる。己の額を抑えて呻いた青年を、自分の膝に頬杖をついた名前が表情を一変させ睨みつけた。
「神にでもなるつもりか?非力な人間風情が」
ざわざわと海面が揺らぎ、海が荒れる。冷たいその声は青年の心臓を冷やした。
目を見開いた彼は何かを言おうとして、唇を震えさせるも失敗に終わる。
「弱きを救いたい…笑わせるな。
人を助けるのは人。人を傷つけるも人。
人を救うのは…なんだ?」
「…それは。いやそれも人だろう」
「馬鹿者、人間なんぞただの媒体に過ぎぬ。
ふむ…ならもう一問おう。何故貴様は無銘であり続けた?」
「俺は、俺のままで在りたい。
そのためには華美な飾りなど、必要なかった」
「筋の通った人間ほど…愚直よな。
まあ、良い」
す、人間離れした白さを纏う手が伸びて、青年の顎を掬い上げたかと思うと、名前は体を近づけて彼の顔を覗き込む。
「貴様は今食らっても、何の味もしないだろう。
それではつまらんし、腹の足しにもならん。
とはいえ…このまま手放すのも惜しい」
青年を覗き込む目の瞳孔が蛇のように収縮し、値踏みをするように彼の目をじいと見つめた。
その瞳に、まるで体の中…いや自分の存在全てを暴かれるような、そんな恐怖に背を震わせた青年。そんな彼の反応を愉しむように、笑った名前は何かを思いついたかのように瞳を輝かせた。
「貴様は、死んだのだろう?」
「いや…確かまd「死んだ、のだろうな。そう、そうだ。貴様はあの砂漠の国で処刑され殺された。ならば今の貴様は亡者だ。いや亡者にもなれぬ半端者だ」
「……俺を、どうするつもりだ?」
「勘が良いな。…妾はニンゲンの穢い悪意が大好物でな、穢れた魂ほど美味なものはない。
「悪食…か」
「しかし、妾は此処から外に出ることは叶わぬ身。
丁度良い。妾に仕えよ。さすれば貴様の正義も達成されよう…」
「……俺に餌をとって来いと?」
「貴様が悪を捕らえ、妾が喰らう。
良い話であろう?」
「………1つ、聞いても良いか?」
「許そう」
「何故外に出れない?
これ程の力を以てすれば、簡単なことに思えるがね」
「…呪いを、受けた」
「呪い?」
「ああ。忌まわしい神の、な。
それ故この地に縛り付けられ、力を蓄えることも出来ぬ」
「…ふむ。わかった。
力を取り戻すために、手伝えというのだな」
「貴様にとっても…悪い話ではない。
元々妾は身代わりとしても祀られた身。故に負を呼ぶ力を持つ。
そして力を取り戻せば、この世の悪が妾の元に姿を現すであろう。
それを殺せば…貴様の願いは叶うことにならないか?」
「この世の、悪…?」
「ふ…。それは、妾にもわからぬ。が…聖杯にも関係したあるもの。と言っておこう」
「聖杯だと…っ!」
聖杯…。それはこの世の悪が犇めく欲望の杯と化してしまったもの。人の願いを歪に叶えるそれに、青年は遠い記憶を思い出す。静かに目を伏せた名前は彼から離れ、その背を向けた。
名前の背を見ながら青年は思考する、それ以上彼女は何も言わないつもりであることは何となくわかった。
膝の上に体を丸める子狐に目を移すと、円らな瞳が彼をじいとみていた。
「…キミの言うことを、全て理解したわけじゃない。
だが…少なくとも、俺はこの狐に恩がある。そしてキミにも」
どこからか吹く風が、澄んだ海の香りを届ける。
青年は、その名前のことを知らない。そしてその目的も知らないし、己に何をさせようとしているのかも全て理解してはいない。けれど彼もまた、名前の瞳を覗き込んでいた。虚ろにも見える瞳のその奥に、誰かに助けを求める何かを。
お人好しとも称される彼の良いところでもあり悪いところでもあるのだが、放ってはいけないと、感じてしまったから。
「恩?…もう返してもらったが?」
「傷を、治してくれただろう」
「…………血は穢れだ。妾の御前で穢れを見せることは許さぬ」
戦争の傷跡のみならず、檻の中で看守に受けた暴行の傷は大きかった。
足の骨も折れていた記憶があるし、体中傷だらけになっていた記憶がある。けれど今ではその痛みも傷跡もさっぱりと消えているのだ。それを指摘すると、初めて動揺する様子を見せた名前に、青年は思わず笑う。
先程握り締めた拳から流れた血を見ても、何も言わなかった癖に。と。
「キミに従おう、だが意見はさせてもらうさ」
「…その顔を止めよ。笑うな…っ!」
「始めから気になっていたのだがね。
あれはキミの住処であろう?もう少し掃除が必要だ。
少し待っていたまえ」
果てない海に囲まれた小さな島に立つ神社にも見える、庵。
縁側から見える部屋を指した青年は、今までの様子が嘘のように軽々と立ち上がり、腕まくりをし始めた。
今度は名前が動揺するように彼を見上げると、ぽん、と大きな手が名前の頭を撫でたのだ。
「ぶ…、無礼者!妾を誰と…「主、だろう?…ならば大事な雇い主を、汚部屋に住まわせておくのは、俺のプライドにも関わることでね。大人しく待っていると良いさ」
得意げな顔で片目を閉じた青年を見送り、名前は不安を抱いた。
もしかしたらこれから…自堕落な生活が出来なくなってしまうのではないか、と。
変な方向に嫌な予感を感じている名前に、こーんと狐の楽しそうな声が掛けられたのである。
*****************
「…貴様、戦場を駆け回っている時よりも良い顔をしているな…」
青年の働きによりぴかぴかに磨かれた庵内に、無数の狐が気持ち良さそうに走り回る。それを埃が立つと注意して頭を撫でた彼は、颯爽と台所に向かい何かを作り始めたのである。
エプロンをした後ろ姿を見て思わず呟かれた言葉に、穏やかな笑みを浮かべた彼は、昔からの趣味でね。と返すと、名前の方を向いた。
「食べられないわけではないのだろう、名前」
「まあ、そうだな。必要がないだけだ」
「なら食事の時間だ。随分久しぶりなものでね、つい張り切ってしまったよ」
ずらりと並ぶ、色鮮やかで良い匂いのするそれらを見て、名前は素直に頷いたのであった。
「エミヤ、貴様に呪いを贈ろう」
「…呪い…?」
「貴様らの言葉でいうと…令呪に近い意味合いだ。
お互いを結び、縛るもの。これにより貴様は自由に此処を出入りできる。
そして外でも妾との疎通が可能となる。うれしいだろう?」
「監視されて喜ぶ人間など稀だと思うが…」
食事の後、居間で茶を啜っていた名前が唐突に言った言葉に、エミヤと呼ばれた青年は片眉を上げた。
名前は青年を近くに呼び付けると、向き合うように座らせる。そしてどこからか短剣を取り出すと、鞘を抜く。
ぎょっとした青年を制して、両手の掌を出すようにと命じた。
「血を交わすことによって、契りは交わされる。
準備は良いか?」
「……ああ」
青年は目を閉じる。
得体の知れない妖との契りをする己を軽率とも思う。しかし青年の作った食事を美味しそうに頬張る姿が、どうしても悪い妖には思えなくさせていた。食を大事にする彼は、食事の姿勢で人間性を観察する癖があり、それは人以外にも適応されたということである。
目を開けた青年は、名前を見据えた。
凛と背筋を伸ばす彼女は、やはりうつくしい。
短剣の先で彼の掌に傷をつける。そして自分の掌も同様に。
流れ出る血を確認すると、彼女は青年の両の手に自分のそれを合わせると、指を絡めた。
ひんやりとした感触に戸惑う青年に構わず、名前は何か呪文のような言葉を唱え始めたかと思うと、突然体に熱が走った。
心臓の鼓動が増し、ぐるぐると血が回る感覚。それは名前の血を自分の体に取り込んでいるようで。
「……良いだろう」
滲む汗を拭おうとするが両手が塞がれてしまってはどうしようもなかった。
暫くその熱に耐えていると、ぽつりと小さな声で名前が言う。
そしてゆっくりと彼女の指が彼の手から離れ、自分の掌が再び露わになる。そこには傷一つなかった。
確かめるように青年の様子を見た名前は、ぺたぺたと額や首筋を触ったかと思うと。
「脱げ」
「……すまないが、もう一度言ってもらっても?」
「上の服を脱げ」
突然の言葉に驚いた青年はその瞳を見開くが、名前の真剣な顔を見て視線を彷徨わせつつも、自分の服に手をかけた。変な意味でないことはわかっていたが、女性の前で服を脱ぐということは中々恥ずかしいことだと、咳払いを1つ。そうして服を脱ぐと、彼の逞しく筋肉が隆起する体の丁度心臓の上に、それはあった。
刺青のようにも見える鮮やかな模様。
勿論、今まで彼になかったそれをまじまじと見た名前は、満足げに口角を上げた。
すると、名前は突然自分の着物に手を掛けたかと思うと、胸の部分をがばりと寛げた。露になった白い肌に、思わず首を逸らした青年にくすくすと笑いを零して、彼女は言った。
「呪いは結ばれた。これがその証だ」
「…っ、わ…わかった、だからその、勘弁してくれ…名前」
初心な反応を見せ頬を赤く染める青年は、白い肌に刻まれた自分のと同じそれに何とも言えない、何かが込み上げてくるのを感じつつ、彼女の胸元をばっと正す。
その様子を愉しむような表情を見せていた彼女であったが、ふと突然体を倒した。
反射的に青年が受け止めると、ぐたりと彼に凭れた彼女は苦く笑った。
「おい…、大丈夫か?」
「契りには力を使う…、少し休めば問題ない。
…だからそのような顔をするでない、エミヤ」
「……っ」
細い体に巡る熱が、肌を通して感じられる。
思わず体を強張らせた彼に背中を預けて、彼女は空を見上げた。
「不思議なものだな」
「……?」
「いや、気にするな」
この庵で人間と話すのは、いつぶりだろうかと、懐かしい何かがこみ上げる。心地の良いような何か切ないようなそれを、名前は今まで忘れていた。しかし青年の体温を、早い鼓動を背に感じながら、名前は確かに今それを思い出したのだ。
*終わり*
戻る