かつての青を追いかける
*企画サイト『きみはポラリスさま』へ提出済
*人魚主です





うつくしい満月が浮かぶ、明るい夜。
紺碧に映し出されたまるい月は、呼吸でもするかのように繰り返される波に歪み、あがる飛沫がきらきらと柔い光を弾いた。
ざざん、と鳴り響く海の音色は、生きとし生けるものの本能に染み込む、穏やかな母の声で。時に厳しく、優しく語り掛けるその声に、岩陰に腰掛けていた女は静かに耳を傾けていた。

淡い月の光にぼんやりと輪郭を浮かび上がらせる女は、うつくしい女である以外、普通の人間のように見えた。しかし、その腰から先に伸びる足は…人間のそれではない。形の良い鱗が並ぶ尾びれが、月明かりを反射して輝いていた。そう、女は人間の間では伝説とされる『人魚』であったのだ。

人魚たちは、常に人の目を避けているため、滅多に砂浜などに近づいたりしない。しかし此処最近、人間たちの争いにより、海が荒れてしまっていて、休める場所が少なくなって来ているのだ。だから、深夜の人気のない時間に、仕方なく陸に上がり、月光浴を楽しむことにしていた。

この夜も、彼方此方に戦いの爪痕が残されており、船の破片らしきものやらが至る所に浮いていた。
永い時を生きる女は、人間の歴史は戦いでつくられていくことを、よく知っていた。だがこうして、母なる海に人知れず還っていく名も無き戦士たちを見ていると、何となく沈鬱な表情となってくるのを隠せない。
きっとその気持ちを人は同情と呼ぶのだろうけれど、それを口にしたら、同族に嫌悪の目で見られることは充分に承知していた。

海を汚すものは、海に住まうものたちの敵だ。その逆も然り。それが理。
とはいえ…人間が短い寿命の中で、生きるために足掻く姿を、女は醜いとは思えなかった。

ざざん、とひと際大きく海がないた気がして、女は思考を中断した。
人魚にとって、人間に発見されることは死と同義である。故に気配や足音に気を配っていたのだが、どうも考えすぎると周りが見えなくなる癖は直らないらしい、と周りを見回した。
すると少し離れた先の、海に黒い何かが浮いているのを、女は見た。人魚は人間よりも遥かに目も、耳も良い。海の中で生きるために五感がかなり発達しているのだ。だからその黒いものが何であるか、女にははっきり見えたのである。仰向けに浮き上がるそれは、確かに息をしていた。

あれは、人間だ。と確信した女はさてどうするかと考え込む。
人間を助ける義理は無いし、寧ろ海を荒らしているのだから止めを刺しても良いぐらい…なのだが、やはり女はそんな気にはなれなかった。それに人間が1人死んだくらいでは何も変わらないだろうと、自分の性分にため息を吐くと、女は腰を上げた。



「……っ、お…もい…っ!」



音もなく海へと飛び込んだ女は、尾びれを軽く動かすと、あっという間にその黒い塊のもとへとたどり着いた。その途端に人間の体は沈み始めたのだ。所々に金属の鎧を纏うそれが、今まで沈んでいなかったのは、自分に発見させるためであったのかもしれない。女たちの主である海神は、心こそ広いが、気に入ったものに対しては寛大すぎるほど寛大なのだ。ならばこの人間は、海に気に入られたものなのだろう。でなければ今頃海の藻屑となっていただろう。

沈んでいく人間の体を支える。
鍛え抜かれた武人の、しなやかな筋肉の所為だろう。無駄な筋肉はついていないようだが…重いものは重い。だが華奢とはいえ女は人魚。自分の体で男を支えると、尾びれを激しく動かして海面へと飛び出す。そして立ち泳ぎの要領で、そのまま砂浜へと泳いだ。

砂浜に滑らせるように人間の体をやや乱暴に押し出すと、女は足を人間のそれに変えた。
そして砂浜に転がる人間に近づく。海水で濡れた砂の上に倒れているそれの顔を覗きこむと、その人間が随分整った顔を持つ男であることがわかった。
その長身の体を引っ張り上げると、仰向けに寝かせる。何とか呼吸は保っているらしいが、たっぷりと海水を飲んでしまったようだ。そのことを確認した女も砂に膝をつけると、男の顔を覗き込み、非常に淡々とした動作で薄い唇に、自分のそれを合わせ息を吹き込んだ。
するとごほごほという、苦しげな呻き声と共に、男の呼吸に異音が混じらなくなる。

顔を離した女は男の全身をチェックし、船の破片で切ったのだろう細かな傷や、切り傷や刺し傷などの深い傷が刻まれているのを見つけた。



「仕方ないわ」



小さく呟いた女は、身に着けていた2枚貝を模したネックレスを外すと、ぱかりと貝の口を開ける。するとその中には何かの液体が詰められていた。男が纏う、ぴっちりとした素材の青い服は、特に怪我を負った部分の損傷が激しいため、態々脱がせる必要はなさそうだと判断すると、その液体を指の腹で撫でる。そして、男の傷にそれを塗り始めたのである。

気を失ったままの男は、ちょっとやそっとでは起きそうにもない。
痛々しく裂けた肌をなぞるように女の指が滑ると、その傷は跡形もなく無くなっていったのだ。

それはそうだろう『人魚の秘薬』と呼ばれるその薬は、誰もが何を代償としても欲しがる文字通り万能薬。とある成分を足せば『不老不死の薬』にすらなり得ると知られる伝説のそれは、実は女にしかつくれない貴重なもの。それを惜しみなく使い、致命傷に近い傷さえも塞いだ女は、苦悶の表情を段々と落ち着かせていった男の顔を見て、安堵の息を零した。

海の香りを纏った風が、2人の間を駆け抜ける。
するとその時、数多の足音が近づいてくるのを女の耳は捉えた。
急いで立ち上がり周りを見渡すと、闇を払う松明が蛍のように揺れていて、その限定的な光の下に鎧を纏った多くの男達の姿が見えたのだ。

もしかしたら、女が助けたこの男を探しに来たのだろうか。兎に角この場所から離れなくてはと、先ほどの岩陰へと急いで走り隠れる。不意に激しく吹き荒れた潮風が、砂浜に刻まれた女の足跡を吹き消した。



薄っすらと開かれた、赤い瞳がその後姿を映し出して…再び、閉じられた。




**************





ふと、開かれた赤い瞳は暫く微睡んでいたが、やがてはっきりとした色を取り戻す。
随分昔の夢を見ていたらしい。己がまだ人の身で、英雄として数多の戦場を駆け回っていた頃の記憶であった。人であった頃など遥か昔のことで記憶も薄れている。しかし1つだけ、今もなお、脳に焼き付いて離れることはない、記憶があった。


闇よりも冷たい、夜の海に沈みゆく…感覚。
海面から離れれば離れるほど…遠退いていく光。
まるで海底へと誘われるかのように、落ちていく体は身動き一つ許されない。
ほぼ意識は途切れかけていて、纏わりつく死の気配を振り切ることはできなかった。

だが、その時…遠い海面に差し込む月の明かりに紛れて、それは現れた。
『暗い青の中を優雅に泳ぐ人影』を見た男は、そのまま意識を失ってしまったのだ。
そして次に目を開けたのは、己から離れていく女の遠い後ろ姿で。気が付けば己は部下に囲まれ、傷一つ負わずに生還できたことに、歓喜の声が上がっていたのを覚えている。


ふらりと立ち上がった英霊は、禍々しい暗い色の甲冑に身を包み、その体を追う無数の棘のついた尻尾が忙しなく揺らしながら、カルデアの廊下を足早に歩き始める。
そして辿り着いた部屋の扉を勢い良く開け放つと、男の目の前には水が広がっていた。

カルデアの広い施設内の、一番奥の部屋には、秘密の部屋がある。
関係者以外立ち入り禁止の所で、場所もわかりにくいため、知る人は少ない。
そこは巨大な地下まで続く、深い水槽がある。円形の形をした部屋は水で満たされており、中央には、大きな円形の足場がある。部屋の入口からその足場までは一本の通路が繋いでいるので、英霊や人はそこを通るようになっているのだ。

慣れた足取りで中央の足場へと辿り着いた英霊は、部屋の奥の窓を見上げる。光の落とされた部屋は、差し込む月明かりにより照らし出され、充分に明るい。そういえば今宵は満月らしい。不気味なほど大きな月から放たれる光が、水に溶けてきらきらと輝いていた。



ぱしゃん、と水の跳ねる…音が、部屋に響く。



「どうかしたの?…ひどい顔しているわ」

「…ふん。夢見が悪かっただけだ」

「あら、珍しいわね。あなたが夢を見るなんて」

「誰かの所為でな」

「昔の夢でしょ、わかるわ。そんな顔しているもの」

「…………」



男は足場の端にしゃがみ込むと、礼装を解いて手の甲冑を外す。そして武骨なその手を水に向かって差し出すと、水の中から伸ばされた白い小さな手が重ねられた。ひんやりとした冷たい手に、眉を顰めた英霊は、その手を思いっきり引っ張り上げ、現れたその体に腕を回すと一気に抱き上げる。

光を弾く鱗に覆われた、尾びれが空をかいた。
英霊に横抱きにされた女は、すっぽりとその大きな体に収まり、乱暴ねぇとため息を零す。



「それに…あなた、水が嫌いじゃなくて?」



犬のように、というと無言で睨まれるのでそこは伏せて問うた女に、英霊は答えなかった。
彼に似た英霊たちよりも少し暗い色の瞳が、じいと女を見つめると、そのまま腰を落として座り込んだ。勿論女をその腕に抱いたまま。
初めから口数の少ない英霊に慣れているので、女はそれ以上何も言わずに、好きなようにさせることにする。この英霊は口よりも手が先に出るタイプらしいので、こうしたスキンシップが多いのだ。



「…別に、水を嫌ってはいない。ただ…」

「……」

「ただ、…水は、俺から…お前を奪っていく…それが憎い」

「…そう。なら片思いなのね」

「……?」

「知らないかもしれないけれど、海に助けられたのよ…あなたは」

「……」

「あの日の夢を見たのでしょう?もう言わなくてもわかるわ。
あなた『たち』がそんな顔をしている時は、いつでもそう」

「…あいつらも、か」

「まあ、同じようで違う存在なのだから、共通する記憶はあって当然でしょう?」

「………」

「それでね、…あなたが海に浮かんでいるとき、私は声を聞いたの。
助けに行ったら急に沈み始めるんだもの、…ほんと重かったわぁ」



英霊の体温が、じんわりと女に伝わっていく。
何かを渇望するような、何かを追い求めるような、そんな遠い瞳をしているときは、大抵その記憶を思い出した時なのだ。どうやらあの時の記憶は、何故か知らないけれど、このクー・フーリンという男にとって、大事なものとなってしまったらしい。だからこそどのような姿となっても、そして何度召喚されても、その記憶は維持出来ていたのだ。




「……マスター」

「なあに」

「お前の、歌が聞きたい」

「ふふ、あなたも物好きね。…知っているでしょう?
人魚の歌声が不思議と脳に残るのは、海底に手招くため。
沈みゆく船乗りたちへの…鎮魂歌。あなたも沈みたいのかしら」

「………ああ…、そうだな。それも悪くはない」




彼に似た英霊たちとは異なり、戦うこと以外に興味を示さないこの英霊は、滅多に表情を揺らさない。だが今宵は一段と心の機微が顔に現れており、何かを『いたむ』ように、赤い瞳に憂いが映っていた。

女にとって、あの日人間の男を助けたのは、偶々のことなのだろう。一種の気まぐれであり、特別な意味を持っていたわけではない。だが…その男にとって、それは運命と同義だったのだ。
だからこそ、男はあの日からずっと…記憶に残る後姿を追い掛けてきた。その生涯の中で多くの女性に出会ってきたが、思い出すのはいつもその後ろ姿で。
遠くを追う目をした男を見て、女性たちに口々に言われたのを覚えている。『あなたは誰をみているのか』と。その度に、男の目には『青の世界を舞う女』の影が映った。

全てを屠る棘の王として、このカルデアに召喚された時…。目の前に立つ女がいた。己を呼んだという女は、いくつか言葉を発すると、その身を反し、英霊に背を向けた。そしてその瞬間。英霊は、最早呪いのように脳に焼き付いて離れない影が、その女の後ろ姿に確かに重なったのを見た。




「俺は、お前の槍だ…マスター。
そして、お前は…俺の、」





部屋に響く、女のうつくしい歌声に共鳴するように、水面が揺れる。
鏡に顔を映す度に、深海の色を流し込んだような己の髪に、青を泳ぐ女を見続けてきた。それをなんと呼べば良いのだろう。ずっと求め続けてきたこの女に、どのような言葉を送れば良いのだろうか。

女の艶やかな髪に、顔を埋める。
水の澄んだ香のするそれに…酷く、胸が熱くなる。冷たい水に晒された冷たい体の筈なのに、その細い体を抱き締める度に、己の体は熱を得るのだ。


英霊の抱く想い、それを知る女はただ歌う。
その歌が船乗りたちへの鎮魂歌などではなく、切ない恋の歌だということに、きっとまだ気付かない。

それに気付いた時、きっと砂に伏した男は起き上がり、遠ざかる背中を追うのだろう。





*終わり*
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